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早慶戦。ラスト・ヒロミチとラスト・アラタニを満喫。

2012/01/15 16:52
昨日は東伏見へ、第76回早慶アイスホッケー定期戦(早慶戦)を見に行ってきました。

13:30〜の高校戦(早稲田実業VS慶應)は、1:4で早実の負け。1ピリを0−1で終了した後で、2ピリの前半に得点のチャンスがあったのにここで決められず、逆に追加点を入れられてしまっての敗戦。残念。

15:30〜のエキシビションにはなんと早稲田大学出身の村主章枝が登場。表現力に定評のある村主は静かな曲調の滑り出しから一転、ジャケットと長手袋を脱ぎ捨てるとレディー・ガガを模した大胆なパフォーマンスで会場を沸かせてくれました。

16:00〜の選手入場を経て、いよいよ現役の大学戦。この頃になるとものすごい観客の数。DYDOの通路全部をぐるりと立ち見客が囲んだのを見たのは本当に久しぶり。早稲田スタッフの集客に拍手。

この試合は何しろ、自分にとってのラスト・ヒロミチ & ラスト・アラタニなんです。早稲田#21寺尾裕道と、慶應#9荒谷純吾を見るのがこれで最後だって言うこと。(寺尾君は卒業後は王子でプレーするので今後も見る機会はあると思うけど、東京にフランチャイズのチームがないとどうもアジアリーグには熱くなれないです・・・)。

なにしろ今年の関東大学アイスホッケーリーグ戦での寺尾君はすごかったんだ。寺尾君は誰もが認める逸材で、いつでもたいていはスゴいんだけど、なんて言うのかな、決めるべきときに決めてくれないシーズンを繰り返してきたっていうが自分の印象だった。ところが今年、4年生のヒロミチはぜんぜん違った。ここぞ、という場面でスーパーなシュートをガツンと決めてくれる、本当に早稲田ファンの頼りになるたのもしいプレーヤーだった。今年の秋のリーグ戦の最強プレーヤーはだんぜん寺尾君です(ちなみに昨年は東洋の#11池田昇平君。今年の東洋は佐藤育也君の卒業後、グネるプレーヤーがいなくなって単調になっちゃった感じ。強いんだけどおもしろみがいまいちだった)。

そして慶應の荒谷君。慶應がI-Aにいた一昨年、慶應戦ではず〜っと自分の目は荒谷君に釘付けだった。どの試合でも繰り返し発生する荒谷君のブレイクアウェイに会場が沸いて、荒谷君のワンタイマーに合わせる慶應の連携にまた会場が沸いた。慶應が入替戦でまさかのI-B降格となってしまって(昨年の慶應はI-B優勝)、今年は荒谷君を見られない1年をすごしたわけです。

そんなラスト・ヒロミチとラスト・アラタニの早慶戦。まぁ、本当にすごい試合だったよ。1:2、2:0、2:2で、5:4で早稲田の勝ちなんだけど、60分どちらのチームも足、足、足の全力のファイトだった。早稲田は奇跡のインカレ準優勝劇の後ということもあってリードされてもモチベーションがまったく落ちないし、慶應は慶應でいよいよ今回こそ早慶戦で早稲田を食ってやろうという勢いがすごかった。まさに激突。ヒロミチとアラタニも最後まで躍動して、何度も会場を沸かせて魅せてくれた。

第3ピリオド、この日2得点をあげていた慶應のキラー・シューター#10小坂君にハットトリックをもたらすか、という決定的なシュートチャンスに震えたし(「うわ〜、やめてくれぇ〜」って感じ)、試合終了間際には早稲田に3:5のキルプレーも発生してハラハラさせられて見所たっぷり。永久保存版という感じの名勝負だった。

ひとつ残念だったのは早稲田の喧嘩番長、#4杉澤優の姿がなくて(なぜ?)、ラスト・スギサワが見られなかったこと。秋のリーグ戦では序盤のパワープレーでブルーラインから出したパスを自分で飛び込んでもらい直して入れちゃうって言うめちゃくちゃクリエイティブでカッコいいゴールを見せてくれたり(これはもしかしてベスト・スギサワかもと思った)、逆に終盤では第1ピリオドの3点リードで守りに回る弱腰の喧嘩番長(?)を見せてくれたり(「スギサワ〜!下がるな〜!」って感じ)、今年は杉澤君も本当に好きでずっと見てたんだけど(復刻版ドラクエ「I」の勇者の名前を「スギサワ」にしたくらい)、最後に早慶戦で見られなかったのはすごく残念。

で、何よりも一番うれしかったのは早稲田の3ピリの決勝のゴールが#19田村君だったこと。田村君は早稲田スポーツのインカレ準優勝の記事で、他の選手が「やりきった」と言っている中、ひとり「悔しいです。最後は勝って終わりたかった」と勝ちにこだわるコメントをしていたので、その田村君のゴールが決勝点で本当に良かったなぁと。試合後もヘルメットを取ると充実した笑顔でした。去年の岩浅君とか、こういうセットを支える渋いプレーヤーが好きなんだよね。

そうそう。最後に。忙しくてずっと更新していなかったブログのホッケー記事を久しぶりに書こうと思ったのは、試合後にDYDOの通路を歩いて行く慶應の応援の人が大きな声で、「赤い彗星!」って叫んでいたから。おいおい。それって俺がここで書いた荒谷君のニックネームだよ。マジ? ここってそんなに読まれているのか、しかも慶應の人に? という驚きで書いてみました(笑)。


「早稲田スポーツ」の早慶戦の記事はこちら

「USTREAM」の早慶戦の動画はこちら



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アイスホッケーのインターハイ組み合わせが決定

2012/01/06 12:33
今年のアイスホッケーのインターハイは今月21日から群馬県の伊香保で開催です。

1/5(木)の抽選結果が公開されています:インターハイのページはこちら

早朝から車出して日帰りを繰り返す予定ですが、スキーに行く人たちがたくさんいて渋滞すると困ります・・・。



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「マルコの福音書」をブログにして公開しました!

2011/12/29 12:41
私のメルマガ「英語で聖書を読もう!」で以前に配信した「マルコの福音書」をブログにして公開しました。

URLはこちらです: http://gospelofmark.blog.fc2.com/

サイドのリンクにも追加しておきました。どうぞ、お時間のあるときにご覧ください。




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Matthew 21:12-17(マタイの福音書第21章12〜17節)

2011/12/28 23:55
水曜日は私のメルマガ「英語で聖書を読もう!」を転載しています。

Matthew 21:12-17(マタイの福音書第21章12〜17節)


聖書の引用:英語[NLT]と私の日本語意訳の併記


Jesus Clears the Temple

イエスさまが寺院を一掃する



12 Jesus entered the Temple and began to drive out all the people buying and selling animals for sacrifice. He knocked over the tables of the money changers and the chairs of those selling doves.

12 イエスさまは寺院に入り、いけにえの動物を買ったり売ったりしている人たちをみな追い出し始めました。イエスさまは両替商人のテーブルと、鳩を売る人たちの椅子をひっくり返しました。

13 He said to them, “The Scriptures declare, ‘My Temple will be called a house of prayer,’ but you have turned it into a den of thieves!”

13 イエスさまは人々に言いました。「聖書には『私の寺院は祈りの家と呼ばれる』と宣言しています。しかしあなた方はそれを泥棒の巣にしてしまいました。」

14 The blind and the lame came to him in the Temple, and he healed them.

14 寺院の中で目や足の不自由な人がイエスさまのところへ来ました。イエスさまは彼らを癒しました。

15 The leading priests and the teachers of religious law saw these wonderful miracles and heard even the children in the Temple shouting, “Praise God for the Son of David.” But the leaders were indignant.

15 祭司長たちや律法学者たちは、これらの驚くべき奇跡を目にし、寺院の中で子どもたちまでもが「ダビデの子について神さまを褒め称えよ」と叫ぶのを耳にしました。しかし指導者たちは憤慨しました。

16 They asked Jesus, “Do you hear what these children are saying?” “Yes,” Jesus replied. “Haven’t you ever read the Scriptures? For they say, ‘You have taught children and infants to give you praise.’ ”

16 指導者たちはイエスさまにたずねました。「あなたには子どもたちが言っていることが聞こえていますか。」 イエスさまは答えました。「はい。あなた方は聖書を読んだことがないのですか。なぜならそこには『あなたは子供と幼児にあなたを褒め称えるように教えました』と書いてあります。」

17 Then he returned to Bethany, where he stayed overnight.

17 それからイエスさまはベタニヤに戻り、そこに泊まりました。



ミニミニ解説


マタイの福音書第21章です。

イエスさまの一行はついにエルサレムへ到着しました。今回のシーンは前回の「勝利の入城(Triumphant Entry)」を経て、城壁に囲まれたエルサレムの町の中に入った後のシーンです。

今回と同じ部分の記述は「マルコ」「ルカ」「ヨハネ」の全福音書が伝えています。エルサレムに到着した直後のイエスさまの話は「勝利の入城」「寺院での出来事」「イチジクの木を呪う話」の三つで、今回はそのうちの「寺院での出来事」にあたりますが、マルコは「イチジクの木を呪う話」を二つに分けてその間に「寺院での出来事」を挟んでいるのに対し、マタイは先に「寺院での出来事」を伝えて、「イチジクの木を呪う話」はその後に置いています。結果として今回の「寺院での出来事」が起こった日付がマルコとマタイでは一日ずれています。マルコは「イチジクの木を呪う話」と「寺院での出来事」が起こったのは「勝利の入城」の翌日ですが、マタイでは「勝利の入城」の直後の同じ日に「寺院での出来事」が起こり、「イチジクの木を呪う話」は翌日になっています。

今回と同じ部分のマルコは、Mark 11:15-18(マルコの福音書第11章第15〜18節)です。「15 それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、16 また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。17 そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」 18 祭司長、律法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、群衆がみなイエスの教えに驚嘆していたからである」([新改訳])。

ルカは非常に簡潔で、前回の続きのLuke 19:45-46(ルカの福音書第19章第45〜46節)の二節です。「45 宮に入られたイエスは、商売人たちを追い出し始め、46 こう言われた。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした」([新改訳])。

「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、マタイはこの部分をマルコから採用していると思われます。

最後にヨハネを見てみます。John 2:13-22(ヨハネの福音書第12章第12〜19節)です。「13 ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。14 そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、15 細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、16 また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」 17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。18 そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」 19 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」 20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」 21 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。22 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた」([新改訳])。引用箇所の後半部分は異なる資料部分との組み合わせになっていますが、前半の同じ部分はマルコ、マタイとは雰囲気が違い、臨場感があります。

イエスさまの一行は城壁に囲まれたエルサレムの町に到着し、門を通って城塞の内側へ入ると北上して市内の北東部にある寺院へ入っていきます。当時のエルサレムの寺院は建築マニアのヘロデ大王が再建した豪壮で巨大な寺院です。寺院の内部は何層かのエリアに仕切られていて、内側へ進むほどに聖域へと近づくのですが、その一番外側の層が「異邦人の庭(Court of the gentiles)」と呼ばれる広い場所になっていました。ここは本来はその名の示すとおりに異邦人(=ユダヤ人以外の外国人)が寺院の中で神さまを褒め称えたり、祈りを捧げるために用意された場所なのですが、イエスさまの時代には多数の商人が入り込んで商売をしていたのです。ちょうどこの時期は「過越(すぎこし)の祭り」という年に一度の祭事の季節で、こうしたエルサレムで行われる年中行事の祭りには、イスラエル全土はもちろん、周辺諸国からも多数のユダヤ人がエルサレムを訪れます。訪れたユダヤ人たちは律法の定めに従って、寺院にいけにえの動物を納めたいのですが、遠方から動物を連れて旅をしてくるのは大変ですから、動物はエルサレムに着いてから商人から買い求めるのです。かつてはいけにえの動物を連れて旅をしていたのですが、便利な世の中になった、ということです。ところが上京するユダヤ人たちを相手にする動物商人は、寺院の異邦人の庭に入り込んで商売をしていたのです。また動物商人に払うお金や、やはり律法で定められた寺院税を払うお金は、寺院専用の通過に両替しなければならず、このための両替商もいました。これらの商人にとってエルサレムで開かれる祭りは稼ぎ時でしたから、きっと祭りの時期になると両替の料率が跳ね上がり、いけにえの動物の価格も上がったことでしょう(「お祭り価格」ですね)。

イエスさまは異邦人の庭で、これらの商人たちのテーブルをひっくり返して追い出していきます。ヨハネの第15〜16節にはその様子が次のように書かれていました。「15 細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、16 また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」」([新解訳])と書かれています。祭りでにぎわう寺院の広場で、むちを振り回しながら商人を追い散らしていく男。これがイエスさまです。尋常ではありませんね。柔和で優しいイエスさまを頭の中に思い浮かべて福音書を読んでいる人たちにはかなりショッキングな場面です。イエスさまはこれらの商人たちを見て13節で、「「聖書には『私の寺院は祈りの家と呼ばれる』と宣言しています。しかしあなた方はそれを泥棒の巣にしてしまいました」と批判します。ここの聖書の引用箇所は、Isaiah 56:7(イザヤ書第56章第7節)と思われます。「わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ」([新解訳])。異邦人の庭で行われるべき祈りや神さまの賛美は行われておらず、そこは「律法に沿っていけにえを備えるため」という名目で、実のところは商売人たちの悪辣な稼ぎの場となっていたからです。イエスさまは見せかけだけで神さまへの心のない人たちが、神さまへの祈りを妨げていることに対して心の底から怒っているのです。

マルコにはイエスさまがこれらの商人を追い出したことを知って祭司長や律法学者たちがイエスさまの殺害を企てたと書いてありますから、売上の一部や、寺院内で商売をするための所場代等ががこれらの指導者たちの懐へ入っていたのかも知れません。イエスさまはそこまでもを含めて「泥棒の巣」と言ったのかも知れません。

マタイがマルコと異なるのはイエスさまが寺院の中で目や足の不自由な人を癒していること、また子供たちがイエスさまについて神さまを褒め称える叫びをあげていることの記述です。




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Matthew 21:1-11(マタイの福音書第21章1〜11節)

2011/12/21 23:55
水曜日は私のメルマガ「英語で聖書を読もう!」を転載しています。

Matthew 21:1-11(マタイの福音書第21章1〜11節)


聖書の引用:英語[NLT]と私の日本語意訳の併記


Jesus’ Triumphant Entry

イエスさまの勝利の入城


1 As Jesus and the disciples approached Jerusalem, they came to the town of Bethphage on the Mount of Olives. Jesus sent two of them on ahead.

1 イエスさまと弟子たちはエルサレムに近づき、一行はオリーブ山のふもとのベテパゲへ来ました。イエスさまは弟子を二人、先に行かせました。

2 “Go into the village over there,” he said. “As soon as you enter it, you will see a donkey tied there, with its colt beside it. Untie them and bring them to me.

2 イエスさまは言いました。「あそこの村へ行きなさい。村へ入るとすぐに、ろばが一頭つながれているのが見えます。横にはろばの子がいます。二頭をほどいて私のところへ連れて来なさい。

3 If anyone asks what you are doing, just say, ‘The Lord needs them,’ and he will immediately let you take them.”

3 あなた方が何をしているのかと誰かがきいたら、『主がお入用なのです』とだけ言いなさい。その人は即座にあなた方に渡してくれます。」

4 This took place to fulfill the prophecy that said,

4 これが起こったのは次の預言を実現するためです。

5 “Tell the people of Israel, ‘Look, your King is coming to you. He is humble, riding on a donkey -- riding on a donkey’s colt.’ ”

5 「イスラエルの人々に伝えなさい。『見なさい。あなたの王があなたのところに来ます。その方はつつましく、ろばの背に乗っています。ろばの子に乗っています。』」

6 The two disciples did as Jesus commanded.

6 二人の弟子はイエスさまの命じたとおりにしました。

7 They brought the donkey and the colt to him and threw their garments over the colt, and he sat on it.

7 二人はろばとろばの子をイエスさまのところへ連れて来て、自分たちの衣服をロバの子の上に投げかけ、イエスさまはその上に座りました。

8 Most of the crowd spread their garments on the road ahead of him, and others cut branches from the trees and spread them on the road.

8 群衆の大半が自分たちの衣服をイエスさまの前の道に広げました。他の人たちは木の枝を切って、道に広げました。

9 Jesus was in the center of the procession, and the people all around him were shouting, “Praise God for the Son of David! Blessings on the one who comes in the name of the Lord! Praise God in highest heaven!”

9 イエスさまは行進の中心にいて、イエスさまのまわりの人たち全員が叫んでいました。「ダビデの子のために神さまを褒め称えよ。主の名前によって来られる方に祝福を。最も高い天の神さまを褒め称えよ。」

10 The entire city of Jerusalem was in an uproar as he entered. “Who is this?” they asked.

10 イエスさまが入って行くと、エルサレムの町中が大騒ぎしました。彼らはききました。「この人は誰なのですか」。

11 And the crowds replied, “It’s Jesus, the prophet from Nazareth in Galilee.”

11 群衆は答えました。「この方はイエスさまです。ガリラヤ地方のナザレから来た預言者です」。



ミニミニ解説


マタイの福音書第21章です。イエスさまの一行はエリコを通っていよいよエルサレムへ到着しました。今回のシーンは「勝利の入城(Triumphant Entry)」と呼ばれるエルサレム入城の場面で、イエスさまの十字架の一週間前にあたります。

今回と同じ部分の記述は「マルコ」「ルカ」「ヨハネ」の全福音書が伝えています。まずマルコは前回の続きのMark 11:1-11(マルコの福音書第11章第1〜11節)です。「1 さて、彼らがエルサレムの近くに来て、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づいたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。3 もし、『なぜそんなことをするのか』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます』と言いなさい。」 4 そこで、出かけて見ると、表通りにある家の戸口に、ろばの子が一匹つないであったので、それをほどいた。5 すると、そこに立っていた何人かが言った。「ろばの子をほどいたりして、どうするのですか。」 6 弟子たちが、イエスの言われたとおりを話すと、彼らは許してくれた。7 そこで、ろばの子をイエスのところへ引いて行って、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。8 すると、多くの人が、自分たちの上着を道に敷き、またほかの人々は、木の葉を枝ごと野原から切って来て、道に敷いた。9 そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫んでいた。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。10 祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。」 11 こうして、イエスはエルサレムに着き、宮に入られた。そして、すべてを見て回った後、時間ももうおそかったので、十二弟子といっしょにベタニヤに出て行かれた」([新改訳])。

ルカはLuke 19:29-44(ルカの福音書第19章第29〜44節)です。「29 オリーブという山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、30 言われた。「向こうの村に行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない、ろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて連れて来なさい。31 もし、『なぜ、ほどくのか』と尋ねる人があったら、こう言いなさい。『主がお入用なのです。』」 32 使いに出されたふたりが行って見ると、イエスが話されたとおりであった。33 彼らがろばの子をほどいていると、その持ち主が、「なぜ、このろばの子をほどくのか」と彼らに言った。34 弟子たちは、「主がお入用なのです」と言った。35 そしてふたりは、それをイエスのもとに連れて来た。そして、そのろばの子の上に自分たちの上着を敷いて、イエスをお乗せした。36 イエスが進んで行かれると、人々は道に自分たちの上着を敷いた。37 イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちの群れはみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め、38 こう言った。「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」 39 するとパリサイ人のうちのある者たちが、群衆の中から、イエスに向かって、「先生。お弟子たちをしかってください」と言った。40 イエスは答えて言われた。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」 41 エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、42 言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。43 やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、44 そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」」([新改訳])。

「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、マタイはこの部分をマルコから採用していると思われます。

最後にヨハネを見てみます。ヨハネは四つの福音書の中では独立した編集内容となっています。John 12:12-19(ヨハネの福音書第12章第12〜19節)です。「12 その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、13 しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」 14 イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。15 「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」 16 初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行なったことを、彼らは思い出した。17 イエスがラザロを墓から呼び出し、死人の中からよみがえらせたときにイエスといっしょにいた大ぜいの人々は、そのことのあかしをした。18 そのために群衆もイエスを出迎えた。イエスがこのしるしを行われたことを聞いたからである。19 そこで、パリサイ人たちは互いに言った。「どうしたのだ。何一つうまくいっていない。見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。」」([新改訳])。

マタイで特徴的なのは、この出来事について第4節と第5節で預言が成就したとの記述を載せているところです。この部分はオリジナルのマルコにはありません。引用箇所はZechariah 9:9(ゼカリヤ書第9章第9節)です。「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに」([新改訳])。この預言によると待望の王がイスラエルに来るときには子ロバに乗ってくることになっているのです。この部分の編集はヨハネにも採用されていますので、ここからヨハネはマタイの後に書かれたのではないか、と考えることができます。それとマタイだけに特徴時なのは、連れてきたロバが子ロバに親ロバを加えて二頭になっているところです。

さて、第1節で一行が到着したとされるオリーブ山は城塞都市のエルサレムの東側に広がる山で、エルサレムからベテパゲとベタニヤへに至る道はオリーブ山を巻くようにして東へ延びています。ベテパゲはエルサレムのすぐ東にあり、ベタニヤはその少し先の南東にある町です。現在でもGoogle Earthなどを使ってこれらの町の位置関係を確認できます。エルサレムからベテパゲを通ってベタニヤまでは、ほんの2〜3キロしか離れていないことがわかります。イエスさまはゼカリヤ書の預言を意識して子ロバにまたがって入城すべく、弟子を二人、先に使いに出して自分の乗るロバを探させます。一行はベタニヤ方面からエルサレムへやって来て、二人の弟子は途中にあるベテパゲの町の手前から使いに出されたのでしょう。二人はろばを探しにベテパゲの町へ入っていったのです。弟子たちがイエスさまに言われたとおり、道ばたで見つけたロバを勝手にほどいて連れて行こうとすると、最初は咎められるのですが、イエスさまの言葉を伝えると許されました。イエスさまがエルサレムに来るとの噂が広まっていた影響でしょうか、事は不思議とイエスさまの予告どおりに進んでいきます。きっとイエスさまは弟子たちにロバを探すようにと指示した時点で、ロバが見つかるかどうか、何も不安を感じなかったはずです。イエスさまは神さまを信じて疑わず、神さまの意志を100%優先するためにエルサレムに向かっていますので、神さまがザカリヤに書かせた預言のこの部分の実現は必然だったからです。

弟子たちは自分たちの衣服を連れてきた子ロバの背にかけ、他の人々は衣服を道に敷きます。これは当時のユダヤ人の風習なのかも知れません。さらに人々は葉の茂る木の枝を切り落としてきて道に敷きました。ヨハネの福音書によるとこれは「しゅろの木の枝」です。これもまたユダヤの風習だったのかも知れません。このエピソードにちなんで、イエスさまがエルサレムに入城されたとされる日曜日(十字架刑の一週間前)を「Palm Sunday(しゅろの主日)」と呼ぶようになりました。

第9節、人々は「ダビデの子のために神さまを褒め称えよ(Praise God for the Son of David!)」と叫びんでイエスさまを迎えます。ここの叫びは[KJV]では「Hosanna to the son of David(ダビデの子に「ホサナ」)」とヘブライ語のまま記されています。これは神さまを褒め称える叫び声です。

注意したいのは、この部分が読み方によってはエルサレム全体がイエスさまの入城を喝采をもって迎えたように誤解してしまうことです。当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にありました。人々が集結して大騒ぎすれば、反ローマ帝国の蜂起が起こるのではないかと警戒されていたような状況です。福音書にはイエスさまの入城の騒ぎを聞きつけて軍隊が登場するなどの記述はありません。と言うことは、この入城は私たちが想像しているよりも規模の小さいものだったのかも知れません。




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Matthew 20:29-34(マタイの福音書第20章29〜34節)

2011/12/14 23:55
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Matthew 20:29-34(マタイの福音書第20章29〜34節)


聖書の引用:英語[NLT]と私の日本語意訳の併記


Jesus Heals Two Blind Men

イエスさまが二人の盲人を癒やす


29 As Jesus and the disciples left the town of Jericho, a large crowd followed behind.

29 イエスさまと弟子たちがエリコの町を出て行くと、大ぜいの群衆が後ろについて行きました。

30 Two blind men were sitting beside the road. When they heard that Jesus was coming that way, they began shouting, “Lord, Son of David, have mercy on us!”

30 道路の脇に盲人が二人座っていました。二人はイエスさまがその道を来ると聞くと叫び始めました。「主よ、ダビデの子よ、私たちをあわれんでください。」

31 “Be quiet!” the crowd yelled at them. But they only shouted louder, “Lord, Son of David, have mercy on us!”

31 「静かにしなさい。」 群衆は彼らにどなりました。ところが彼らはさらに大きな声で叫ぶだけなのでした。「主よ、ダビデの子よ、私たちをあわれんでください。」

32 When Jesus heard them, he stopped and called, “What do you want me to do for you?”

32 イエスさまが彼らの声を聞くと、立ち止まって呼びました。「私に何をして欲しいのですか。」

33 “Lord,” they said, “we want to see!”

33 彼らは言いました。「主よ、私たちは見たいのです。」

34 Jesus felt sorry for them and touched their eyes. Instantly they could see! Then they followed him.

34 イエスさまは二人をかわいそうに思って、彼らの目に触りました。その瞬間、二人は見えるようになりました。それから二人はイエスさまについて行きました。



ミニミニ解説


マタイの福音書第20章です。イエスさまの一行はいよいよエルサレムへ向かいます。イエスさまはガリラヤ地方を出発すると、ヨルダン川を一度東側へ渡り、少し遠回りをしています。今回、一行はエリコの町へ来ました。エリコはエルサレムの北東、20kmほどにある町です。エリコはヨルダン川の西側にありますので、一行はどこかで再度ヨルダン川を西へ渡ったことになりますが、きっと一行はこのエリコの地点でヨルダン川を西へ渡ったのではないかと思います。

エリコについては旧約聖書に有名なエピソードがあります。イエスさまの時代を1500年も遡る頃(紀元前1500年頃)、モーゼに率いられてエジプトの奴隷状態から脱出したユダヤ民族は、40年間も砂漠を放浪させられた後で、いよいよ約束の地、パレスチナに入ります。このときのリーダーはモーゼを引き継いだヨシュアです。ユダヤ民族がヨルダン川を東から西へ渡り、パレスチナに入って最初に攻略した町がエリコなのです。エリコは周囲をぐるりと城壁に囲まれた堅牢な城塞都市でしたが、ユダヤの民がエリコのまわりを七周して雄叫びをあげると城壁がガラガラと崩れ落ち、ユダヤ民族は易々と侵入してエリコを攻略したのです。なんとも怪しげな物語なのですが、なんと近年、城壁が不自然な方向に崩れ落ちたエリコの遺跡が見つかって注目を集めたようです。イエスさまの時代のエリコは大昔に破壊された町をヘロデ大王が再建したリゾートの町だったようです。

今回と同じ部分の記述は「マルコ」に見られます。マルコは前回の続きのMark 10:46-52(マルコの福音書第10章第46〜52節)です。「46 彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人の物ごいが、道ばたにすわっていた。47 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めた。48 そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。49 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言った。50 すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。51 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」 52 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った」([新改訳])。

ルカはLuke 18:35-43(ルカの福音書第18章第35〜43節)です。「35 イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。36 群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。37 ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、38 彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と言った。39 彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。40 イエスは立ち止まって、彼をそばに連れて来るように言いつけられた。41 彼が近寄って来たので、「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです」と言った。42 イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです」と言われると、43 彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。」([新改訳])。

「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、マタイはこの部分をマルコから採用していると思われます。三つを読み比べて気づくのは、マルコとマタイでは一行はエリコの町を出て行く場面ですが、ルカでは一行はエリコへ近づいて行くところです。それとマルコとルカでは盲人は一人ですが(マルコではバルテマイと名前があがっています)、マタイでは二人になっています。

エリコの町の近くの道ばたに盲人が二人座っています。彼らは物乞いをして暮らしているのです。当時はどの町にも物乞いが道ばたに座っていたようです。給金を得るための労働は、この当時は肉体労働に限られていたので、盲人にできるような仕事はなかったのです。イエスさまの一行が近づいてくると、二人は大きな声で叫び始めます。「主よ、ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」。ガリラヤ地方から遠く離れたエリコの町にいる盲人の物乞いでさえ、イエスさまが行っている数々の奇跡の噂を伝え聞いていたのです。二人は何とかしてイエスさまに自分たちの目を癒していただこうと、周囲が止めるのにもひるまずに必死で叫び続けます。

二人が叫んでいる言葉の中にある「ダビデの子」は、この時代から1000年ほど前にイスラエルの第二代の王だったダビデ王の子孫のことです。旧約聖書の中では神さまがダビデ王の子孫に永遠の王座を約束しています。またIsaiah 9:6-7(イザヤ書第9章6〜7節)に次の言葉があります。「6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」([新解訳])。この部分はある日イスラエルに救世主が到来し、その人に力が与えられ、ダビデの王座に着いて永遠に国を治めるとの予告になっています。ですのでイエスさまを「ダビデの子」と呼ぶのは、旧約聖書に約束された「救世主」と呼びかけているのと同じことなのです。

二人の盲人が大きな声で叫び続けると、イエスさまはこれを聞いて立ち止まり、「私に何をして欲しいのですか」とたずねます。二人が「主よ、私たちは見たいのです」と言うとイエスさまは二人の目を癒します。「救い」は求める者に与えられます。自分の「救い」を求めるのに周囲に対する遠慮は不要なのです。大きな声で神さまに「助けてください」とお願いすれば良いのです。そうすればあとは神さまが引き受けてくださいます。イエスさまの癒しは即座にその場で完了します。事態はだんだん良くなるのではなくて、いつも瞬時に奇跡が実現するのです。




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Matthew 20:20-28(マタイの福音書第20章20〜28節)

2011/12/07 23:55
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Matthew 20:20-28(マタイの福音書第20章20〜28節)


聖書の引用:英語[NLT]と私の日本語意訳の併記


Jesus Teaches about Serving Others

イエスさまが他の人のために働くことについて教える


20 Then the mother of James and John, the sons of Zebedee, came to Jesus with her sons. She knelt respectfully to ask a favor.

20 それからヤコブとヨハネ、つまりゼベダイの息子たちの母が息子たちといっしょにイエスさまのところへ来ました。彼女はお願いをするためにうやうやしくひざまずきました。

21 “What is your request?” he asked. She replied, “In your Kingdom, please let my two sons sit in places of honor next to you, one on your right and the other on your left.”

21 イエスさまがたずねました。「あなたの願いは何ですか。」彼女は答えました。「あなたの王国で、私の二人の息子を、どうかあなたの隣の栄誉ある場所に座らせてください。ひとりをあなたの右に、もうひとりはあなたの左に。」

22 But Jesus answered by saying to them, “You don’t know what you are asking! Are you able to drink from the bitter cup of suffering I am about to drink?” “Oh yes,” they replied, “we are able!”

22 ですがイエスさまは彼らに答えて言いました。「あなた方は自分が何を求めているのか、わかっていません。あなた方は私が飲もうとしている苦しみの苦い杯を飲むことができるのですか。」彼らは答えました。「はい、私たちにはできます。」

23 Jesus told them, “You will indeed drink from my bitter cup. But I have no right to say who will sit on my right or my left. My Father has prepared those places for the ones he has chosen.”

23 イエスさまは彼らに言いました。「あなた方は実際のところ、私の苦い杯を飲むのです。しかし誰が私の右や左に座るのか、私にはそれを言う権限はありません。私の父が選んだ人たちのために、私の父がその場所を準備したのです。」

24 When the ten other disciples heard what James and John had asked, they were indignant.

24 他の十人の弟子たちは、ヤコブとヨハネが頼んだことを聞いて憤慨しました。

25 But Jesus called them together and said, “You know that the rulers in this world lord it over their people, and officials flaunt their authority over those under them.

25 しかしイエスさまは彼らを一緒に呼んで言いました。「あなた方は、世の中の支配者たちが自分の人民に対して威張りちらし、役人が下の人たちに自分たちの権威を誇示することを知っています。

26 But among you it will be different. Whoever wants to be a leader among you must be your servant,

26 ですがあなた方の間では違うのです。あなた方の中でリーダーになりたいと思う者は、みなのしもべでなければなりません。

27 and whoever wants to be first among you must become your slave.

27 あなた方の中で一番になりたいと思う者は、みなの奴隷にならなければなりません。

28 For even the Son of Man came not to be served but to serve others and to give his life as a ransom for many.”

28 なぜなら人の子でさえ、仕えられるために来たのではなく、他の人に仕え、多くの人のための身代金として自分のいのちを与えるために来たからです。」



ミニミニ解説


マタイの福音書第20章です。イエスさまの一行はいよいよエルサレムへ向かいます。イエスさまはガリラヤ地方を出発すると、ヨルダン川を一度東側へ渡り、少し遠回りをしています。

今回と同じ部分の記述は「マルコ」に見られます。前回の続きのMark 10:35-45(マルコの福音書第10章第35〜45節)です。「35 さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」 36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」 37 彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」 38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」 39 彼らは「できます」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。40 しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」 41 十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。43 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。44 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」([新改訳])。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、マタイはこの部分をマルコから採用していると思われます。マルコとマタイの大きな違いは、オリジナルのマルコはヤコブとヨハネの本人がイエスさまに願い出ているのに対し、マタイでは二人の母が願い出て、その後の会話を二人が引き取っています。この部分を書き換えた真意はわかりません。

ヤコブとヨハネは兄弟で、ともに十二使徒です。二人はガリラヤ湖の漁師でした。Mark 3:17(マルコの福音書第3章17節)にはイエスさまが二人にニックネームをつける場面があり、「ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、このふたりにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた」([新改訳])と書かれていますから、きっと気性の激しい兄弟だったのではないかと思われます。実際、Luke 9:54(ルカの福音書第9章第54節)ではイエスさまの一行を歓迎しないサマリヤ人に対して「弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか([新改訳])と恐ろしい提案をする二人の様子が書かれています。この二人がイエスさまにした頼み事は、イエスさまがイスラエルの王となり、権力の座につくそのときには自分たち二人を王座の左右に座らせてくれ、つまり二人を右大臣、左大臣のように待遇してくれというものでした。

何度か書いて来ていますが、イエスさまに従っている弟子たちは、イエスさまがいまエルサレムに向かっているのは、入城してそこで王となるためだと信じていたのです。そして弟子たちがイエスさまに従う理由とは、イエスさまが統治する新しい王国でできるだけ高く取り立てられたいと言うあくまでも世俗的なものなのです。エルサレムでイエスさまがあっさりと逮捕され十字架刑に処せられて殺されてしまうと、弟子たちは失望し、さらには自分たちにも追及の手が及ぶのではないかとびくびくと恐れながら日々を過ごすことになります。

第22節、イエスさまは二人に対して、「あなた方は自分が何を求めているのか、わかっていません。あなた方は私が飲もうとしている苦しみの苦い杯を飲むことができるのですか」とたずねます。イエスさまが飲もうとしている苦しみの苦い杯とは、弟子に裏切られ、逮捕され、ばかにされ、つばを吐きかけられ、むちで打たれ、最後には十字架刑に処せられる、そういう一連の出来事をさしているのだと思います。イエスさまは二人にそういう覚悟があるのか、ときいているのです。二人は「はい、私たちにはできます」と安請け合いしますが、もちろんそんな恐ろしいことが待ち受けていようとは思うはずもありません。イエスさまの逮捕の場面では、弟子たちはこの二人も含めてみな散り散りになって逃げてしまうのです。

第23節、イエスさまは「あなた方は実際のところ、私の苦い杯を飲むのです」と言います。イエスさまの十字架死〜復活の後、エルサレムにとどまっていた弟子たちに不思議なことが起こります。これはイエスさまがかねてから予告していたとおりのことなのですが、天から聖霊が訪れ、一人一人に宿り、それによって弟子たちは福音が何であるか、その意味を初めて知るのです。そしてその後の彼らはまるで別人のようになって大胆にイエスさまへの信仰を表明し、救世主イエスさまに関する良い知らせを人々に広く伝える活動に入ります。この様子は新約聖書の「Acts(使徒の働き)」に書かれています。やがて福音を伝えるクリスチャンに対する迫害が始まります。彼らは逮捕されたり、さらには殺される者も現れます。今回イエスさまにお願いをしたヤコブが殺されたときの様子はActs 12(使徒の働き第12章)に記録されています。もう一人のヨハネは、もしこのヨハネが「Revelation(ヨハネの黙示録)」の著者のヨハネと同一人物なのだとすると、この本の中では島流しにされたと書かれていますが、言い伝えによると島流しに処される前には煮え立つ油の中に入れられる刑に処せられたとされています(ヨハネはこれを生き延びたとされています)。イエスさまはこれらの出来事を予見して「あなた方は実際のところ、私の苦い杯を飲むのです」と言っているのだと思います。

イエスさまはどちらにしても、神さまの王国で誰がどのポジションに就くかは神さまが決めることなのだと言いますが、この部分の英文は「My Father has prepared those places for the ones he has chosen.」となっていて、時制は「has prepared」「has chosen」と現在完了形で書かれていますから、神さまはこの時点ですでにそれを決めていることになります。

第24節、他の者を出し抜いて勝手に願い事をした二人について他の弟子たちが憤慨したとあります。つまり他の弟子たちも同様に、イエスさまの王国で高い位に迎えられることを望んでイエスさまに従っていたということです。

第25節、弟子たちの口論を聞いていたイエスさまは彼らを呼び寄せ、繰り返し教えてきた「神さまの王国での序列」の仕組みの話をします。第26節と第27節には、「あなた方の中でリーダーになりたいと思う者は、みなのしもべでなければなりません。あなた方の中で一番になりたいと思う者は、みなの奴隷にならなければなりません」と書かれています。神さまの王国では最初の者が最後になり、最後の者が最初になるという逆転のルールです。

今回は最後の第28節に、このルールの根拠が書かれています。「なぜなら人の子でさえ、仕えられるために来たのではなく、他の人に仕え、多くの人のための身代金として自分のいのちを与えるために来たからです」。イエスさまは、神さまが、自分の力では神さまのいる天国に入ることのできない人間のために、救済策の手段として地上に遣わした方です。神さまの元から着た方であり、三位一体説では父なる神さま、子なるイエスさま、そして聖霊の三者が神さまを形成するとされています。イエスさまは神さまと同格に扱われるべき方なのです。ところがイエスさまは、王として人に仕えられるために来たのではなく、神さまが創造した被創造物である人類の命の代償として、自分の命を差し出すために来たのです。自分をすべての人間の下に置いて、自分の命をすべての人間の役に立てるために使う、つまりすべての人間に仕えるために来たのです。しかもその殺され方は惨めで残酷で孤独なのでした。弟子に裏切られ、秘密裏に暴力的に逮捕され、不当な裁判で一方的に裁かれ、異邦人に引き渡され、ばかにされ、つばを吐きかけられ、背中の肉が裂けて骨がむき出しになり、それが砕けるほどにむちで打たれ、手と足を十字架に打ち付けられて殺されるのです。

イエスさまがその道を選んだ理由は、イエスさまが自分の意志よりも、神さまの意志を選択したからです。Mark 14:35-36(マタイの福音書第14章第35〜36節)を引用します。これはイエスさまが逮捕される直前の出来事です。「35 それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、36 またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」([新改訳])。つまりイエスさまは苦しみの苦い杯を飲むのが嫌でたまらないのです。それを神さまに取り除いていただくのがイエスさま自身の望みなのです。ですが自分は、自分の願うことではなく神さまの意志を尊重すると言っています。 イエスさまは、こうして神さまの意志を選択することにより、人類の救済に関わるすべての栄光を神さまに帰し、神さまを褒め称えています。神さまはまたイエスさまがこの選択をしたことについてイエスさまを褒め称えています。だから私たちも主であるイエスさまのやり方にならって、自分の世俗の望みを追求することよりも、神さまの目に正しく映る道を追求すべきなのです。そしてその方法とは、他の人のために働くことなのだとイエスさまは教えています。




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Matthew 20:17-19(マタイの福音書第20章17〜19節)

2011/11/30 23:55
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Matthew 20:17-19(マタイの福音書第20章17〜19節)


聖書の引用:英語[NLT]と私の日本語意訳の併記


Jesus Again Predicts His Death

イエスさまが再び死を予告する


17 As Jesus was going up to Jerusalem, he took the twelve disciples aside privately and told them what was going to happen to him.

17 イエスさまはエルサレムへ上ろうとしていたとき、イエスさまは十二人の弟子だけ密かに横に連れて行って、イエスさまに何が起こるかを話しました。

18 “Listen,” he said, “we’re going up to Jerusalem, where the Son of Man will be betrayed to the leading priests and the teachers of religious law. They will sentence him to die.

18 イエスさまは言いました。「聞きなさい。私たちはエルサレムへ上って行き、そこで人の子は裏切られて祭司長と律法学者たちに渡されます。彼らは人の子に死刑を宣告します。

19 Then they will hand him over to the Romans to be mocked, flogged with a whip, and crucified. But on the third day he will be raised from the dead.”

19 それから彼らは人の子をローマ人に引き渡し、人の子はローマ人にあざけられ、むちで打たれ、十字架にかけられます。ですが三日目に人の子は死者の中からよみがえらされます。」



ミニミニ解説


マタイの福音書第20章です。イエスさまの一行はいよいよエルサレムへ向かいます。イエスさまはガリラヤ地方を出発すると、ヨルダン川を一度東側へ渡り、少し遠回りをしています。

今回と同じ部分の記述は「マルコ」と「ルカ」に見られます。この直前の第20章最初の「ぶどう園の労働者のたとえ話」はマタイだけに挿入された話でした。マルコは第19章最後の引用の続きとなり、Mark 10:32-34(マルコの福音書第10章第32〜34節)です。「32 さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた。33 「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。34 すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります」([新改訳])。ルカもやはり第19章最後の引用の続きとなり、Luke 18:31-34(ルカの福音書第18章第31〜34節)です。「31 さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。32 人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。33 彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」 34 しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった」([新改訳])。 「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、マタイはこの部分をマルコから採用していると思われます。

今回はイエスさまが自分の死を予告した場面です。これで予告は三回目になります。第一回目は、Matthew 16:21-23(マタイの福音書第16章第21〜23)です。イエスさま一行が北方のピリポ・カイザリヤへ出かけたときのことで、ペテロがイエスさまに「あなたは生ける神の御子キリストです」([新改訳])と言ってイエスさまから褒められた直後でした。「21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。22 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」 23 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」([新改訳])。ペテロは自分の死の予告を始めたイエスさまを諫めて、今度は怒りを買ってしまったのでした。

第二回目はMatthew 17:22-23(マタイの福音書第17章第22〜23)で、イエスさまの一行が北部の旅から帰ってきたときです。「span style="color:#039">22 彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは彼らに言われた。「人の子は、いまに人々の手に渡されます。23 そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると、彼らは非常に悲しんだ」([新改訳])。

第三回目の今回は、予告の内容が詳しくなっています。エルサレムに行くとイエスさまは裏切られて祭司長と律法学者たちに引き渡され、死刑が宣告され、ローマ人に引き渡される。それからイエスさまはローマ人にあざけられ、むちで打たれ、十字架にかけられる。そして三日目によみがえるとあります。これはほぼ実際にイエスさまに起こったことと同じです。福音書はイエスさまの十字架死〜復活を経て、最初のクリスチャンの教会ができてから流布が始まった書き物ですから、福音書に「イエスさまが自分の死を予告していた」と書いても、それは実際にそれが起こった後になります。だからどんな風に書くことだってできたわけです。実際のイエスさまの予告がどこまで実際の出来事と一致していたかはわかりませんが、予告は三度にわたって繰り返されていますし、第16章には、「その時から弟子たちに示し始められた」と書かれていますから、イエスさまは自分がエルサレムに行くにあたっての覚悟のようなものを弟子たちに何度も話したのだろうと思います。しかし弟子たちは最後の最後までイエスさまが伝えようとしていることの意味を理解しませんでした。弟子たちはエルサレムに行ったらイエスさまはイスラエルの王になる、そのための行動を起こすと信じていたのです。だからイエスさまの口から出る否定的な予告には耳を貸そうとしませんでした。




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Matthew 20:1-16(マタイの福音書第20章1〜16節)

2011/11/23 23:55
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Matthew 20:1-16(マタイの福音書第20章1〜16節)


聖書の引用:英語[NLT]と私の日本語意訳の併記


Parable of the Vineyard Workers

ぶどう園の労働者のたとえ話


1 “For the Kingdom of Heaven is like the landowner who went out early one morning to hire workers for his vineyard.

1 「天の王国は、自分のぶどう園で働かせる労働者を雇いに、ある朝早く出かけて行った地主のようなものです。

2 He agreed to pay the normal daily wage and sent them out to work.

2 彼はふつうの一日分の労賃の支払いを約束して労働者を送り出しました。

3 “At nine o’clock in the morning he was passing through the marketplace and saw some people standing around doing nothing.

3 朝九時に彼が市場を通り抜けると、なにもしないで立っている人たちを見かけました。

4 So he hired them, telling them he would pay them whatever was right at the end of the day.

4 そこで彼はその人たちに、一日の終わりに適切な額を払うからと行って、その人たちを雇いました。

5 So they went to work in the vineyard. At noon and again at three o’clock he did the same thing.

5 そこで彼らはぶどう園へ働きに行きました。正午と三時にももう一度彼は同じことをしました。

6 “At five o’clock that afternoon he was in town again and saw some more people standing around. He asked them, ‘Why haven’t you been working today?’

6 午後五時に彼は再び町にいて、人々がさらに立っているのを見ました。彼はその人たちにききました。『どうして今日は仕事をしなかったのですか。』

7 “They replied, ‘Because no one hired us.’ “The landowner told them, ‘Then go out and join the others in my vineyard.’

7 彼らは答えました。『だれも雇ってくれなかったからです。』地主は彼らに言いました。『それなら行って、私のぶどう園にいる人たちに合流しなさい。』

8 “That evening he told the foreman to call the workers in and pay them, beginning with the last workers first.

8 その夜、地主は職長に労働者たちを呼び入れて労賃の支払いをするように言いました。最後に雇った労働者から始めるようにと。

9 When those hired at five o’clock were paid, each received a full day’s wage.

9 五時に雇われた者たちが支払いを受けたとき、それぞれが一日分の労賃を受け取りました。

10 When those hired first came to get their pay, they assumed they would receive more. But they, too, were paid a day’s wage.

10 最初に雇われた者たちが支払いを受け取りに来たとき、彼らはもっともらえるだろうと思いました。しかし彼らも一日分の労賃を受け取りました。

11 When they received their pay, they protested to the owner,

11 彼らは自分たちの支払いを受け取ると、地主に抗議しました。

12 ‘Those people worked only one hour, and yet you’ve paid them just as much as you paid us who worked all day in the scorching heat.’

12 『あの人たちはたった一時間しか働いていません。なのにあなたは私たちと同じだけ支払いました。私たちはものすごい暑さの中、一日中働いたのです。』

13 “He answered one of them, ‘Friend, I haven’t been unfair! Didn’t you agree to work all day for the usual wage?

13 地主はそのうちのひとりに答えました。『友よ、私は不当ではありませんよ。あなたはふつうの労賃で一日働くと約束しませんでしたか。

14 Take your money and go. I wanted to pay this last worker the same as you.

14 自分のお金を受け取って帰りなさい。私はこの最後の労働者にも、あなたと同じだけ払いたかったのです。

15 Is it against the law for me to do what I want with my money? Should you be jealous because I am kind to others?’

15 私のお金で私のしたいことをすると、私は法律に違反するのですか。私が他の人に親切だから嫉妬しているのですか。』

16 “So those who are last now will be first then, and those who are first will be last.”

16 だから、いま最後の者がそのときには最初になり、最初の者は最後になるのです。」



ミニミニ解説


マタイの福音書第20章です。イエスさまの一行はいよいよエルサレムへ向かいます。イエスさまはガリラヤ地方を出発すると、ヨルダン川を一度東側へ渡り、少し遠回りをしています。第20章は、第19章から引き続いてイエスさまの話で始まります。

今回と同じ部分の記述は「マルコ」にも「ルカ」にみ見つかりません。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ここはマタイの「独自の資料」からの編集ということになります。ですが、何と言うのでしょうか、この話はいかにもイエスさまらしい話だと思うのです。またこの話は、第19章の最後をしめくくったイエスさまの謎の言葉、「しかしいま偉大な者は一番重要ではなくなり、いま一番重要でない人がそのときには一番偉大になるのです」の内容を説明する展開になっています。なので個人的には、この部分はイエスさまの言葉を集めた「Q資料」から、マタイが独自に採用して組み込んだのではないか、と思ったりします。

話の内容は、ぶどう園を持つ地主が、日雇いの労働者を求めて町に出て行き、次々と作業者を雇い入れていきます。雇い入れた回数は五回、それぞれ朝早く、午前九時、正午、午後三時、午後五時です。一日の最後に地主はその日の分の賃金を払うのですが、地主はそのときにまず、最後の午後五時に雇った労働者から順番に労賃を払い始めさせます。つまり早くから働いていた労働者ほど、支払いを待たされているわけです。長い間働いてヘトヘトだからさっさと労賃を受け取って帰りたいのに。さらに驚いたことに、全員が同じ金額を受け取るのです。午後五時からたった一時間しか働いていない労働者が最初に丸一日分の労賃を受け取ったので、早くから働いていた労働者の間では期待が膨らみます(たった一時間で一日分なら、八時間で八日分ももらえるのか・・・)、が、払われた金額は契約どおりの一日分の労賃なのでした。

さてこの話での地主はもちろん神さまのことですね。そして労働者が私たち人間。一日のうち異なった時間に雇われた労働者は何を象徴しているのでしょうか。

まず私が最初に着目したのは、どれだけ長い間神さまのために働いた人も、ほんの少しだけ神さまのために働いた人も、神さまは同じように扱われると言うことです。これを見て最初に想像したのはユダヤ人と異邦人のことです。ユダヤ人は神さまから選ばれた民族です。その関係は、最初にユダヤ民族の父祖であるアブラハムが神さまと契約を結ぶところから始まっています。Genesis 15:9-21(創世記第15章9〜21節)を見てみましょう。神さまが最初にアブラハムと契約を結ぶ場面です。「9 すると彼に仰せられた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」10 彼はそれら全部を持って来て、それらを真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。11 猛禽がその死体の上に降りて来たので、アブラムはそれらを追い払った。12 日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。13 そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。14 しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。15 あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。16 そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」 17 さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。18 その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。19 ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、20 ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、21 エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を」([新改訳])。

アブラハムは神さまから呼び出されて供え物のいけにえを持って出ていきますが、日が暮れたころに眠らされてしまいます。「四百年の間」の話はユダヤ民族が饑饉を逃れてエジプトへ避難し、そこで奴隷生活を余儀なくされる苦難を指しています。この苦難の状況からユダヤ民族を脱出させたリーダーがモーゼです。17節に「日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた」とありますが、これは「炎」が、アブラハムが二つに裂いて列にして置いた雄牛や雌ヤギや雄羊の間を通り過ぎたことを言っています。こうやって「二つに裂いたいけにえの間を歩く」行為がユダヤ民族の契約の儀式だったようですが、今回、これを履行したのは「炎」の側だけです。アブラハムは眠っていたのです。つまりこれは神さまが一方的にユダヤ民族と交わした約束ということになります。

そしてGenesis 17:1-7(創世記第17章1〜7節)です。「1 アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。2 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」3 アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。4 「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。5 あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。6 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。7 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである」([新改訳])。

これはユダヤ民族繁栄の約束です。神さまがこのような約束を結んだのはユダヤ民族とだけです。ユダヤ人は神さまから見て特別な民族なのです。言うなればユダヤ人は一番最初の朝早くから、神さまのぶどう園で働く機会をいただいたのです。ところがイエスさまに関る救済の良い知らせ「福音」は、イエスさまの十字架死〜復活の後、エルサレムを飛び出し、イスラエルから出て周辺諸国へ急速に広まっていきます。ペテロは「Acts(使徒の働き)」の中で啓示を受けて福音を外国人へ伝え始めますし、最初はクリスチャンを迫害するファリサイ派急先鋒の一人だったパウロは、ダマスカスへ向かう途上でイエスさまと出会い、イエスさまから福音を広めるように指示されます。Acts 9:15(使徒の働き第9章15節)でイエスさまはパウロのことを、「あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です」([新改訳])と言っています。こうしてイエスさまに関する福音は私たちを含む異邦人にも広く知られることとなり、イエスさまの流された血によって私たちの「罪(sin)」の汚れは洗い流され、神さまの元へ行けることとなりました。つまり最初から神さまを知っていたユダヤ人も、最後の最後に福音によって神さまを知った外国人も、神さまから受け取る贈り物は同じと言うことになったのです。

次に私が考えたのはクリスチャンのことです。クリスチャンとなってからもう何年も長い年月を過ごしている人も、まだつい最近クリスチャンになったばかりの人も、神さまから受け取る贈り物は同じなのですね。しかも同じ贈り物を受け取るのに、最初に呼ばれるのはクリスチャン歴の一番短い人からなのです。

それから私は、早朝、たとえば午前六時から午後六時まで12時間働いても、夕方五時から一時間だけ働いても、もらえる賃金が同じだったときに、どうして早朝から働いた人は不満に思うのだろうか、と考えました。それはつまり、自分が余計に働いた11時間はどうなってしまうのか、それはまったく評価されないのか、という不満ですよね。私たちが、この「余計に働いた11時間」をどうして問題にするのかと言うと、それは時間が貴重だからです。私たちにとっての時間は生まれてから死ぬまでの有限の財産だからです。私たちは例外なく誰もがいつかは死ぬ、そういう前提の上に私たちは生き、だからこそ「時間は貴重」という概念を共有しています。その貴重で有限な資源の中から大切な11時間を労働のために費やしたと言うのに、そのことはまったく評価されないのか、という主張なのです。

ここでも私は神さまは「時間を超越している」のだなぁ、と思わされます。神さまは「永遠を生きている」方です。永遠を生きている方には、きっと始まりも終わりもないのです。過去にも未来にも同時に存在しているのです。「神の遍在」という言葉があります。これは「神さまががどこにでも存在すると考えること」ですが、これを私たちは三次元の「空間」の中でいつも想像します。私たちが地球上の(宇宙空間の?)どこにいても、たとえ高い山の頂上にいても、あるいは自分以外に誰もいないトイレの個室の中にいても、「神さまは自分を見ている」と感じることができます。私たちはそのとき何となく上を見ますが、神さまは果たしてどこにいて、私たちを見ているのでしょうね。ずっとずっと高く上方にいると想像することもできるし、神さまがすべての空間を満たしている、つまり私たちは神さまのまっただ中、あるいは内側にいる、と想像することもできます。これと同じような想像を「時間」にあてはめるのです。神さまは時間の端から端までのすべての場所に、同じ神さまが存在しているのです。う〜ん。そんな想像は無理ですかね。でももし神さまがそうやって時間という概念を超越しているのだとしたら、少なくとも時間は有限ではなく、自分の11時間をどうしてくれるのか、というような発想にはならないのではないか、と思います。

いや、神さまはどうしてそんなことをするのか、自分は不当に思う、と言う人もいるかも知れません。そんな人には14〜15節に答があります。神さまは自分の持ち物で何をしようと自分の勝手ではないか、と言っています。そもそもこの世界は神さまが創造されたもの、神さまが宇宙の王、創造主、全部が全部神さまのものなのです。そこをどのようなルールで支配しようと、それは神さまの自由です。私たちには発言の権利はありません。天国は、こうやって私たちの想像をはるかに超越した神さまのルールが支配する場所なのです。だから16節にあるように、私たちが天国に行くときには「いま最後の者がそのときには最初になり、最初の者は最後になる」のです。今私たちが持っている序列の価値観はまったく通用しなくなる、ということです。




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Matthew 19:16-30(マタイの福音書第19章16〜30節)

2011/11/16 15:21
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Matthew 19:16-30(マタイの福音書第19章16〜30節)


聖書の引用:英語[NLT]と私の日本語意訳の併記


The Rich Man

金持ちの男


16 Someone came to Jesus with this question: “Teacher, what good deed must I do to have eternal life?”

16 ある人がイエスさまところへ来てこの質問をしました。「先生、永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしなければならないのでしょうか。」

17 “Why ask me about what is good?” Jesus replied. “There is only One who is good. But to answer your question -- if you want to receive eternal life, keep the commandments.”

17 イエスさまは答えました。「何が良いことなのかをどうして私にたずねるのですか。良いのはただひとりだけです。ですが、あなたの質問に答えると、もしあなたが永遠の命を得たいのなら、戒めを守りなさい。」

18 “Which ones?” the man asked. And Jesus replied: “‘You must not murder. You must not commit adultery. You must not steal. You must not testify falsely.

18 「どの戒めですか」と男の人はたずねました。イエスさまは答えました「殺してはいけません。姦淫してはいけません。盗んではいけません。偽りの証言をしてはいけません。

19 Honor your father and mother. Love your neighbor as yourself.’ ”

19 あなたの父と母を敬いなさい。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」

20 “I’ve obeyed all these commandments,” the young man replied. “What else must I do?”

20 若い男は答えました。「その戒めはすべて守って来ました。他に何をしなければならないでしょうか。」

21 Jesus told him, “If you want to be perfect, go and sell all your possessions and give the money to the poor, and you will have treasure in heaven. Then come, follow me.”

21 イエスさまは男に言いました。「もし、あなたが完全になりたいなら、行って、あなたの持ち物をすべて売り払い、お金を貧しい人たちに与えなさい。そうすればあなたは天に宝を持つことになります。それから来て、私に従いなさい。」

22 But when the young man heard this, he went away sad, for he had many possessions.

22 ところが若い男はこれを聞くと、悲しんで去って行きました。男はたくさんの財産を持っていたのです。

23 Then Jesus said to his disciples, “I tell you the truth, it is very hard for a rich person to enter the Kingdom of Heaven.

23 それからイエスさまは弟子たちに言いました。「あなた方に本当のことを言います。金持ちが天の王国に入るのは大変難しいのです。

24 I’ll say it again -- it is easier for a camel to go through the eye of a needle than for a rich person to enter the Kingdom of God!”

24 もう一度言います。金持ちが神さまの王国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が易しいのです。」

25 The disciples were astounded. “Then who in the world can be saved?” they asked.

25 弟子たちは驚いてたずねました。「それでは世の中の誰が救われるのでしょうか。」

26 Jesus looked at them intently and said, “Humanly speaking, it is impossible. But with God everything is possible.”

26 イエスさまは弟子たちをじっと見て言いました。「人間の見地では、それは不可能です。ですが神さまはどんなことでもできます。」

27 Then Peter said to him, “We’ve given up everything to follow you. What will we get?”

27 それからペテロがイエスさまに言いました。「私たちはあなたに従うためにすべてを捨てました。私たちは何を得るのでしょうか。」

28 Jesus replied, “I assure you that when the world is made new and the Son of Man sits upon his glorious throne, you who have been my followers will also sit on twelve thrones, judging the twelve tribes of Israel.

28 イエスさまは答えました。「私があなた方に保証します。世界が新しくなり、人の子が栄光の座に着くとき、私に従って来たあなた方も十二の座に着いて、イスラエルの十二部族を裁くのです。

29 And everyone who has given up houses or brothers or sisters or father or mother or children or property, for my sake, will receive a hundred times as much in return and will inherit eternal life.

29 そして私のために、家や、兄弟や、姉妹や、父や、母や、子や、財産を捨てた者は誰でも見返りに 百倍を受け取り、永遠のいのちを得るのです。

30 But many who are the greatest now will be least important then, and those who seem least important now will be the greatest then.

30 しかしいま偉大な者は一番重要ではなくなり、いま一番重要でない人がそのときには一番偉大になるのです。



ミニミニ解説


マタイの福音書第19章です。イエスさまの一行はいよいよエルサレムへ向かいます。イエスさまはガリラヤ地方を出発すると、ヨルダン川を一度東側へ渡り、少し遠回りをしています。

今回と同じ部分の記述は「マルコ」と「ルカ」に見られます。マルコは前回の続きのMark 10:17-31(マルコの福音書第10章17〜31節)です。 「17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」 18 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。19 戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」 20 すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」 21 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」 22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。23 イエスは、見回して、弟子たちに言われた。「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。」 24 弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。「子たちよ。{富にたよる者が}神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。 25 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」 26 弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」 27 イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」 28 ペテロがイエスにこう言い始めた。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」 29 イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、30 その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。31 しかし、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです」([新改訳])。

ルカはLuke 18:18-30(ルカの福音書第18章18〜30節)です。「18 またある役人が、イエスに質問して言った。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」 19 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません。20 戒めはあなたもよく知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え。』」 21 すると彼は言った。「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」 22 イエスはこれを聞いて、その人に言われた。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」 23 すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。 24 イエスは彼を見てこう言われた。「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。25 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」 26 これを聞いた人々が言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」 27 イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」 28 すると、ペテロが言った。「ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました。」 29 イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、30 この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません」([新改訳])。

「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、マタイはこの部分をマルコから採用していると思われます。マタイ、ルカ、マルコで、イエスさまに質問をする人が微妙に違います。オリジナルのマルコでは「ひとりの人」([NLT] a man、[KJV] one)であったものを、ルカは「ある役人」([NLT] a religious leader、[KJV] a certain ruler)、マタイでは「青年」([新改訳]、[NLT] the young man、[KJV] the young man)としています。財産をたくさん持っているのだし、イエスさまに「自分は律法をすべて守っている」と言っているので、マタイの「青年」よりも、ファリサイ派の議員とか役人などのの方がイメージが合います。マルコでは「ひとりの人」だったものを、なぜわざわざマタイが「青年」としたのかはわかりません。

さてイエスさまのところへ男の人がやってきて、「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしなければならないのでしょうか」と、永遠のいのちを獲得するための条件をききます。イエスさまはなんと答えたでしょうか。イエスさまはまず「何が良いことなのかをどうして私にたずねるのですか。良いのはただひとりだけです」と答えています。これはオリジナルのマルコにあるように、男の人がイエスさまに「尊い先生」と呼びかけたからで、イエスさまは「尊い」という形容詞をつけるべきは神さまだけなのですよ、と前置きをしているのです。

イエスさまは男の人の質問に答えます。イエスさまの答は「もしあなたが永遠の命を得たいのなら、戒めを守りなさい」です。引き続きイエスさまがあげている「戒め」の例は有名なモーゼの十戒からの引用です。モーゼの十戒は旧約聖書のExodus 20(出エジプト記第20章)の最初に書かれています。長いですが引用します。「1 それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。2 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。7 あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。-- あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も -- 11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。13 殺してはならない。14 姦淫してはならない。15 盗んではならない。16 あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。17 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない」([新改訳])。イエスさまはここから引用したわけですが、ユダヤ人ならイエスさまが十戒から引用したことは誰にでもすぐにわかります。つまりイエスさまは十戒から例をいくつかあげながら、「永遠のいのちを手に入れたければ、旧約聖書に書かれた律法を守りなさい」と言っているのです。

するとこの男の人は「その戒めはすべて守って来ました。他に何をしなければならないでしょうか」と言います。これはファリサイ派などに代表されるユダヤ民族の保守層が主張していたことです。イエスさまは福音書の中でその主張を否定しています。何度か書いてきていますが、イエスさまの主張は、律法は制定者である神さまの視点で解釈しなければならないし、神さまは人の心をご覧になる方なので、心の中に律法に違反する種があれば、その時点でアウトなのですよ、と言っています。たとえば誰かを憎らしいと思ったら、神さまから見ればそれは人を殺したのと同じようにガッカリされる、と言うのです。

イエスさまは男の人が「その戒めはすべて守って来ました」と言うのを聞いて、この人の解釈が表面的なことを言っており、本当に律法を守るというのがどういうことなのかわかっていないと知りました。ただオリジナルのマルコには、21節の最初に「イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた」とありますから、この人はこれを傲慢に言い放ったのではないのかも知れません。「ファリサイ派」とひとくくりにするのは大変危険なことで、律法を守ることが神さまの目に正しく映ること、つまりは天国へ行く条件と信じてることが普通でしたし、そのときの「律法を守る」は「ファリサイ派のように守る」と考えるのが普通で、だからこそイエスさまが会堂で教えて、聖書の言葉を神さまの視点から語ると人々はそこに「新しさ」と同時に「権威」を感じたのです。そこでイエスさまは「もし、あなたが完全になりたいなら、行って、あなたの持ち物をすべて売り払い、お金を貧しい人たちに与えなさい」と言います。これは具体的な命令なので、律法解釈のように表面的に行うことはできません。男の人は文字どおり、持ち物をすべて売らないとイエスさまの言葉を実現できません。男の人は困り果てて悲しみのうちに去って行きます。きっと誠実な人なのでしょう。

イエスさまは弟子たちに「金持ちが天の王国に入るのは大変難しい。金持ちが神さまの王国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が易しい」と言います。すると弟子たちは驚いて「それでは世の中の誰が救われるのでしょうか」とききました。この問いに対する正解は「世の中で天国に入れる人は誰もいない」です。らくだが針の穴を通れないくらい、すべての人は天国には入れないのです。なぜなら神さまの設定する基準を満たせるような人、自分の言動はもちろんのこと、自分の心までもを覗かれて、神さまを一度もガッカリさせずに生きていける人、そんな人間は地球上には存在できないからです。

続けてイエスさまは言います。「人間の見地では不可能ですが、神さまはどんなことでもできます」と。そのとおりです。人が自力で天国に入れない以上、神さまにすがる他はありません。自力で天国に到達することができない人間のために、神さまが提供した手段、天国行きのキップ、それがイエスさまの十字架です。

27節でペテロが、それでは自分たちはどうなのだ。自分たちはすべてを捨ててイエスさまに従ってきたが、自分たちはどうなるのだ、と言います。金持ちの男にはできませんでしたが、弟子たちは文字どおり、すべてのものを捨て去ってイエスさまに従ってきた、と主張します。これはやや怪しい発言だと思うのです。弟子たちはエルサレムへ向かう道中で誰が一番偉いかを議論しますし、イエスさまが十字架で処刑されてしまうと、落胆して、捨ててきたはずのガリラヤ地方の故郷へ戻るのですから。弟子たちがイエスさまに従った理由は、やがてイエスさまがイスラエルの王となり、ローマ帝国の支配を打ち破って、かつてダビデやソロモンが繁栄させた栄光あるイスラエルを復活させると信じていたからです。そのときには自分たちがイエスさまの下で、重職に登用されるのだと信じていたからです。つまりはきわめて世俗的な理由で従っていたのです。

ですがここでイエスさまは「私があなた方に保証します。世界が新しくなり、人の子が栄光の座に着くとき、私に従って来たあなた方も十二の座に着いて、イスラエルの十二部族を裁くのです」と言っています。この言葉はマルコにもルカにも見当たりませんが、ルカの別の箇所に類似の記述があります。Luke 22:28-30(ルカの福音書第22章28〜30節です。「28 けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。29 わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。30 それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです」([新改訳])。つまり「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、この「十二使徒が十二部族を裁く」の部分は、イエスさまの語録集である「Q資料」からの引用でしょう。これは恐らくこの世の中の終わりに何が起こるのかをめぐる、当時の「終末論」の中で信じられていたことのひとつだと思います。十二というのはユダヤ人には特別な数字のようです。

最後の部分を読むと、イエスさまのために「捨てる」覚悟をした者には百倍の見返りがあるのですね。そして、最後の最後に書かれている言葉、「先の者があとになり、あとの者が先になる」というイエスさま特有の謎の言い回し、これは私たちの死後に待っている天国では、神さまが人間に与える序列があり、その順序づけは私たちがこの世の中の価値観に沿って考える序列とはまったく違うものなのだよ、と言っているのだと思います。その価値観の違いは、次回にお送りする予定の第20章冒頭のたとえ話の中にも現れています。




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Matthew 19:13-15(マタイの福音書第19章13〜15節)

2011/11/09 12:32
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Matthew 19:13-15(マタイの福音書第19章13〜15節)


聖書の引用:英語[NLT]と私の日本語意訳の併記


Jesus Blesses the Children

イエスさまが子供を祝福する


13 One day some parents brought their children to Jesus so he could lay his hands on them and pray for them. But the disciples scolded the parents for bothering him.

13 ある日、親たちが、イエスさまに手を置いてお祈りをしていただこうと子供を連れて来ました。ところが弟子たちはイエスさまを煩わせるからと親たちを彼らを叱りました。

14 But Jesus said, “Let the children come to me. Don’t stop them! For the Kingdom of Heaven belongs to those who are like these children.”

14 しかしイエスさまは言いました。「子どもたちを私のところへ来させなさい。止めてはいけません。なぜなら天の王国はこのような子供たちのような人たちのものだからです。」

15 And he placed his hands on their heads and blessed them before he left.

15 そしてイエスさまはそこを去る前に、手を子供たちの頭の上に置いて祝福しました。



ミニミニ解説


マタイの福音書第19章です。イエスさまの一行はいよいよエルサレムへ向かいます。イエスさまはガリラヤ地方を出発すると、ヨルダン川を一度東側へ渡り、少し遠回りをしています。

今回と同じ部分の記述は「マルコ」と「ルカ」に見られます。マルコは前回の続きのMark 10:13-16(マルコの福音書第10章13〜16節)です。「13 さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。14 イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」 16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された」([新改訳])。ルカはLuke 18:15-17(ルカの福音書第18章15〜17節)です。「15 イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちがそれを見てしかった。16 しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。17 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません」([新改訳])。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、マタイはこの部分をマルコから採用していると思われます。

今回の部分ではイエスさまの祝福を求めて親が自分たちの子供を連れて来ました。弟子たちがそれを見て咎めます。イエスさまの周囲にはいつも本当にたくさんの人たちが群れていて、イエスさまも弟子たちも気持ちが休まる暇がありませんでしたでしょうから、弟子たちはイエスさまを煩わすようなことはするな、少しはイエスさまに静かな時間を与えてあげましょうと、親たちを叱ったのかも知れません。イエスさまはそれを否定して、子供たちを自分のもとに連れてこさせます。そして「天の王国はこのような子供たちのような人たちのものだから」と言います。

何度か書いていますが、「このような子供たちのような人たち」の中の「子供たち」と言うときに、現代の日本の子供を想像すると判断を誤ります。二千年前のローマ帝国支配下のイスラエルでは、女性も子供も社会的な地位は無に等しかったのです。前回の離婚の話でもわかったように、当時は書面一つで男性が一方的に女性を離別できたようですし、子供はときには売買さえされていたようです。

さてイエスさまは今回、14節で「天の王国はこのような子供たちのような人たちのもの」と言っています。またマタイでは省略されているようですが、マルコとルカには「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません」と書かれています。では「子供たちのような人」、「子どものように神の国を受け入れる者」とはどういう意味で書かれているのでしょうか。

小さな子供を呼んで、お菓子やおもちゃを与えると、子供はそれを受け取ろうとさっと手を出します。黙って受け取るとお母さんから「ありがとうは?」とたしなめられたりします。こちらが「あげるよ」と言ったときに、即座にさっと手を出す、この姿勢が、ここで言う「子どものように受け入れる」の意味だと思います。大人になるとなかなかこれができません。もらういわれがないだとか、代わりに差し出すものがないだとか言って、一方的な贈り物をすんなりもらうことができません。

聖書に書かれている「福音」は実は神さまからの一方的な贈り物なのです。神さまは天国にいて私たち人間をそこへ迎えたいと思っていますが、天国は神聖な場所なので汚れのある者は入れません。神さまの目から見た「汚れ(けがれ)」とは、私たち人間が行う神さまに対する裏切りの行為のことです。神さまは私たち人間を造るときに、人間にはこのように振る舞って欲しいという意図を持って創造されましたが、私たちは創造以来、ずっと神さまの期待を裏切りっぱなしなのです。旧約聖書はユダヤ民族がどのように神さまを裏切り続けたかを書いたユダヤ民族の歴史書です。ユダヤ人に限らず、すべての人間が神さまの期待を裏切ってガッカリさせ、結果として汚れています。人間は誰も天国に入る基準を満たすことができないのです。神さまは愚かな行為を繰り返す人間を見て、それでも人間が好きなので、神さまの側から人間を救済する計画を実行しました。それが「福音」です。神さまはあらゆる人間の「罪(sin)」を背負って十字架の上で処刑させる目的でイエスさまを地上に派遣し、イエスさまは神さまの意図どおりに十字架にかかって死にました。聖書には「罪(sin)」を清めるのは血である、と書かれていますが、イエスさまは十字架の上で血を流し、その血が私たち人間の罪を洗い流したのです。

これはいまから約二千年前に完了した話です。人間のために罪を背負うイエスさまの処刑は済んだことです。だから、この神さまの救済計画を信じて、受け入れる、と表明する人には、それだけで天国行きがプレゼントされるのです。私たちに人間の側には失うものがなにもない、大変結構な話です。

だから私たちは子供のように手を出して、「ください」と言えば良いのです。たしなめられないように、「ありがとうございます」と言った方が良いと思います。二千年前のイスラエルの子供は社会的に恵まれない身分にいて、何かを受け取っても本当に何も差し出せるものがなかったのです。そういう子供が手を差し出して、「ください」と乞うように、私たちも純粋な気持ちで「ありがとうございます。私にください」とお願いすればよいのです。




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Matthew 19:1-12(マタイの福音書第19章1〜12節)

2011/11/02 12:30
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Matthew 19:1-12(マタイの福音書第19章1〜12節)


聖書の引用:英語[NLT]と私の日本語意訳の併記


Discussion about Divorce and Marriage

離婚と結婚についての議論


1 When Jesus had finished saying these things, he left Galilee and went down to the region of Judea east of the Jordan River.

1 イエスさまはこれらのことを言い終えると、ガリラヤ地方を去って、ヨルダン側の東のユダヤ地方へ行きました。

2 Large crowds followed him there, and he healed their sick.

2 大勢の群衆がイエスさまに着いてそこへ行きました。イエスさまはその人たちの病気を癒やしました。

3 Some Pharisees came and tried to trap him with this question: “Should a man be allowed to divorce his wife for just any reason?”

3 ファリサイ派の人たちが何人か来て、イエスさまを罠にかけようとして、このこの質問をしました。「どのようなものでも何か理由があれば、男が自分の妻を離別することは許されるのでしょうか。」

4 “Haven’t you read the Scriptures?” Jesus replied. “They record that from the beginning ‘God made them male and female.’

4 イエスさまは答えました。「聖書を読んでいないのですか。聖書には最初から神さまが人を男と女に造ったと書いてあります。

5 And he said, ‘This explains why a man leaves his father and mother and is joined to his wife, and the two are united into one.’

5 神さまは言っています。『このことが、どうして男が自分の父と母を離れ、妻と結ばれて、二人が一つになるのかを説明している』と。

6 Since they are no longer two but one, let no one split apart what God has joined together.”

6 彼らはもはや二人ではなく一つなのですから、神さまが結び合わせたものを、誰にも分割させてはいけません。」

7 “Then why did Moses say in the law that a man could give his wife a written notice of divorce and send her away?” they asked.

7 ファリサイ派の人たちがたずねました。「それではなぜモーゼは律法の中で、男は妻に離婚の書状を渡して離別できると言ったのでしょうか。」

8 Jesus replied, “Moses permitted divorce only as a concession to your hard hearts, but it was not what God had originally intended.

8 イエスさまは答えました。「モーゼが離婚を許したのは、ただあなた方のかたくなな心に譲歩してのことです。ですがそれは神さまが最初に意図したことではありません。

9 And I tell you this, whoever divorces his wife and marries someone else commits adultery -- unless his wife has been unfaithful.”

9 あなた方にこのことを言っておきます。どんな人でも、自分の妻が浮気をしたわけではないのに自分の妻を離別して、誰か他の人と結婚する人は姦淫を犯すことになるのです。」

10 Jesus’ disciples then said to him, “If this is the case, it is better not to marry!”

10 イエスさまの弟子たちがイエスさまに言いました。「そういうことならば結婚しない方がましです。」

11 “Not everyone can accept this statement,” Jesus said. “Only those whom God helps.

11 イエスさまが言いました。「この発言はすべての人が受け入れられるものではありません。神さまが助ける人たちだけです。

12 Some are born as eunuchs, some have been made eunuchs by others, and some choose not to marry for the sake of the Kingdom of Heaven. Let anyone accept this who can.”

12 宦官に生まれる者がいれば、他の人から宦官にされた者もいます。天国の王国のために結婚しないことを選択する者もいます。それができる者にはそれを受け入れさせなさい。」



ミニミニ解説


マタイの福音書第19章です。第18章はイエスさまが二度にわたって自分の死を予告した後で、、エルサレムへ向けて出発する前にカペナウムで語られたという形でイエスさまの語録集を収めていました。第19章からイエスさまの一行はいよいよエルサレムへ向かいます。通常、イスラエル北部のガリラヤ地方から南部のエルサレムへの旅では、ガリラヤ地方を離れたらそのまま南下する形でユダヤ地方へ入りますが(全体の行程は約100km)、イエスさまはまっすぐ南下するのではなくて、ヨルダン川を一度東側へ渡ります。

今回と同じ部分の記述は「マルコ」と「ルカ」に見られます。第18章後半ではしばらくマタイ独自の編集でマタイの教会のルールが挿入されていましたが、ここから再びマルコからの採用に戻ります。Mark 10:1-12(マルコの福音書第10章1〜12節)です。「1 イエスは、そこを立って、ユダヤ地方とヨルダンの向こうに行かれた。すると、群衆がまたもみもとに集まって来たので、またいつものように彼らを教えられた。2 すると、パリサイ人たちがみもとにやって来て、夫が妻を離別することは許されるかどうかと質問した。イエスをためそうとしたのである。3 イエスは答えて言われた。「モーセはあなたがたに、何と命じていますか。」 4 彼らは言った。「モーセは、離婚状を書いて妻を離別することを許しました。」 5 イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、この命令をあなたがたに書いたのです。6 しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。7 それゆえ、人はその父と母を離れ、{その妻に結びついて、}8 ふたりは一体となるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。9 こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」 10 家に戻った弟子たちが、この問題についてイエスに尋ねた。11 そこで、イエスは彼らに言われた。「だれでも、妻を離別して別の女を妻にするなら、前の妻に対して姦淫を犯すのです。12 妻も、夫を離別して別の男にとつぐなら、姦淫を犯しているのです。」」([新改訳])。ルカは大変短くて、それらしき記述はたった一節です。Luke 16:18(ルカの福音書第16章18節)です。「だれでも妻を離別してほかの女と結婚する者は、姦淫を犯す者であり、また、夫から離別された女と結婚する者も、姦淫を犯す者です」([新改訳])。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、マタイはこの部分をマルコから採用していると思われます。

イエスさまが移動するとたくさんの群衆がついて来ます。イエスさまはその中にいる病人やけが人を癒やします。するとそこへファリサイ派がやって来て議論をふっかけます。ファリサイ派はイスラエルの最高議決機関であるサンヘドリンに議席を持つ政治結社です。最高議決機関とはいっても当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にありましたから、サンヘドリンはローマ帝国から限定的な統治権限が許されているにすぎません。ファリサイ派の党員は律法の先生が中心です。ユダヤ人はラビと呼ばれるユダヤの宗教指導者専から、マンツーマンの専門教育を受けると律法の先生になることができました(数十年を要します)。これらの指導者は聖書に書かれた律法に加えて、口頭で伝えられてきた慣習法も同じくらい重要と考えていました。ファリサイ派は律法のすべてに精通し、それらすべての項目(613件あるそうです)に、ひとつも違反せずに生きている、自分たちは神さまの目に正しく映っていると自負し、民衆から尊敬と支持を集めていました。

イエスさまのように、イスラエルのどこかに人を集めて話をしたり奇跡の術を行う人が出現すると、ファリサイ派が人物を確かめに来ます。聖書の中には預言者の出現を予告する部分があるので、果たしてその人物が待望の預言者なのかどうか、聖書の権威としては確認する必要があるのです。ここまでの段階でイエスさまの言動は、ファリサイ派の考える遵法からはほど遠いところにあることがわかっているため、ファリサイ派はイエスさまを危険視しています。たくさんの人を集めるなどの行動は、武装蜂起につながりかねない反逆行為にも見えますから、ローマ帝国の目を引きます。もしローマ帝国軍が出動などという事態になると、サンヘドリンは管理能力を疑われて、せっかくローマ帝国から許されていた限定的な自治権を剥奪されてしまうかも知れません。ファリサイ派は既得権益を維持して、そこに長く安住したいのです。なのでファリサイ派は、なんとかイエスさまの違法行為を見つけて宗教裁判にかけて排除できないものかと狙っています。3節にある「イエスさまを罠にかけようとして」と言うのはそういう意味です。イエスさまにきわどい質問を投げかけて、回答の言動中に律法違反にあたるものがないかを探そうとしているのです。

ファリサイ派の質問は、「男は女を離縁できるか」です。7節ではファリサイ派は「それではなぜモーゼは律法の中で、男は妻に離婚の書状を渡して離別できると言ったのでしょうか」ときいています。律法の先生らしい質問です。ファリサイ派が引用しているモーゼの言葉は、旧約聖書の以下の部分と思われます。Deuteronomy 24:1-4(申命記第24章1〜4節)です。「1 人が妻をめとり夫となり、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなり、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、2 彼女が家を出、行って、ほかの人の妻となり、3 次の夫が彼女をきらい、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいはまた、彼女を妻としてめとったあとの夫が死んだ場合、4 彼女を出した最初の夫は、その女を再び自分の妻としてめとることはできない。彼女は汚されているからである。これは、主の前に忌みきらうべきことである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない」([新解訳])。これを読むと、そもそも「妻に何か恥ずべき事を発見したため」という前提で書き始められている部分なのですが、当時の律法の運用では、「離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ」のところだけを取り出して、「男は妻に離婚の書状を渡して離別できる」としていたようです。なんとも便利な解釈です。

イエスさまの回答にはうなります。イエスさまはいつも律法を制定した神さまの視点から語るのです。モーゼが離婚のことを書いたのは、人の心があまりにも頑固だから、仕方なく書いたのであって、もともと神さまは離婚など望んでいない、と。なんて正しいのでしょう。初めから離婚するつもりで結婚する男女などいないでしょう。ところがいざ結婚して共同の生活が始まると、夫婦間でいろいろな衝突や問題が起こり、どうしてもお互いに我慢できなくなると男女は離婚します。それをイエスさまは、人の心が頑固だから、柔軟ではないからと言っているのです。だから仕方なく律法の中に離婚の手続きを書いてあげたのだ、と。ただし繰り返しますが、ここの書き出しはあくまでも「妻に何か恥ずべき事を発見したため」です。私の解釈はリベラルすぎるかも知れません。

法の制定者の意図についてはマルコのときにも書きました。たとえば刑法に窃盗の罪について、最大何年の懲役とか、最大いくらの罰金とか書いてあったら、ファリサイ派はこれを読んで、「何を盗むかにもよるが、一定期間牢屋に入るか、罰金を払えば物を盗んでも良いと法律には書いてある」と解釈することになります。「60km」と書かれた道路標識は、「道路交通法に定められた罰金を負担するつもりなら60kmを超える速度で車を運転をしても良い」と読むと言うことです。法の制定者はそんなつもりで法律を定めているわけではありません。「窃盗をしてはいけない」「スピード違反をしてはいけない」、そういう意図で、どうすれば平安な世の中を作れるだろうかと考えて法律を定めているはずです。それなのにファリサイ派風の解釈だと、リスクを承知なら窃盗もスピード違反もやりなさい、とまるでそれらを促進するような語り口になってしまいます。昨今の少年法の議論(法律を逆手にとって、重罪を犯すなら少年法が加害者を保護する未成年の間が良い、との風潮についての議論)のようです。

イエスさまが言った「聖書には最初から神さまが人を男と女に造ったと書いてあります」の部分は旧約聖書の「Genesis(創世記)」からの引用です。Genesis 1:27(創世記第1章27節)には「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」([新解訳])。Genesis 5:1-2(創世記第5章1〜2節)には「これはアダムの歴史の記録である。神は人を創造されたとき、神に似せて彼を造られ、男と女とに彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、その名を人と呼ばれた」([新解訳])。そしてGenesis 2:23-24(創世記第2章23〜24節)には「人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」」([新解訳])と書かれています。いまから二千年前のローマ帝国支配下のイスラエルでは、女性も子供も、今日のような人権が確立されておらず、社会的地位は大変低いものでした。男性が、結婚した女性が気に入らないときに、離婚状を書いて離別できるとの律法解釈は女性の地位の低さの表れだと思います。それにしても、そんな男尊女卑の世の中からさらに遡ること千五百年、紀元前1500年頃の記述される「創世記」に、「神は人を創造されたとき、神に似せて彼を造られ、男と女とに彼らを創造された」との記述があることには驚かされます。

9節、「どんな人でも、自分の妻が浮気をしたわけではないのに自分の妻を離別して、誰か他の人と結婚する人は姦淫を犯すことになるのです」は、「どんな人でも、自分の妻が浮気をしたわけではないのに自分の妻を離別して、誰か他の人と結婚する人は、神さまをガッカリさせるのです」ということです。結婚は神さまが結び合わせたものなのですから、「浮気」という神さまをガッカリさせる「罪(sin)」抜きで結婚を解消するのなら、神さまはさぞかしガッカリされることでしょう。

10〜12節はマルコにはない、「マタイ」独自の編集ですが、ここは「結婚しないこと」についての考え方になっています。弟子たちが「それなら結婚しない方がまし」と言うのに対し、イエスさまは頭ごなしに否定するのではなく、「この発言(=結婚しない)はすべての人が受け入れられるものではありません」とします。つまり「結婚しない」という選択肢もありで、それができるのは「神さまが助ける人たちだけ」としています。

「宦官」は「eunuch」の訳です。「KJV」でも「eunuch」としてありますが、[新解訳]では単に「独身者」としています。「宦官」は「wikipedia」では「宦官(かんがん)とは、去勢を施された官吏である。(中略)その原義は「神に仕える奴隷」であったが、時代が下るに連れて王の宮廟に仕える者の意味となり、禁中では去勢された者を用いたため、彼らを「宦官」と呼ぶようになった」とあります。つまり生殖の能力を奪った官吏のことです。王の近くで働く仕事なので、生殖能力を奪っておかないと王族と子供を作って謀反を企む可能性があるからです。「宦官」は、イエスさまの言葉の中にはそのままあてはまらないとは思いますが、「その原義は神に仕える奴隷」ともあるように、つまりは結婚よりも、神さまに使えることを優先する信者のことだと思います。イエスさまは中にはそういう人もいるから、それができる人にはそうさせなさい、としています。ここもやはり当時の教会の運営の実態に合わせた編集のような気がします。




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Matthew 18:21-35(マタイの福音書第18章21〜35節)

2011/10/26 23:55
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Matthew 18:21-35(マタイの福音書第18章21〜35節)


聖書の引用:英語[NLT]と私の日本語意訳の併記


Parable of the Unforgiving Debtor

債務者を許さない話


21 Then Peter came to him and asked, “Lord, how often should I forgive someone who sins against me? Seven times?”

21 それから、ペテロがイエスさまのところへ来てたずねました。「主よ、私に対して罪を犯す人を、どのくらいの頻度で許すべきでしょうか。七回でしょうか。」

22 “No, not seven times,” Jesus replied, “but seventy times seven!

22 イエスさまは答えました。「七回ではありません。七十の七倍です。

23 “Therefore, the Kingdom of Heaven can be compared to a king who decided to bring his accounts up to date with servants who had borrowed money from him.

23 そういうことなので、天の王国は、ある王様にたとえることができます。その王様は、自分からお金を借りたしもべたちの借用書を整理しようと決めました。

24 In the process, one of his debtors was brought in who owed him millions of dollars.

24 その過程で、債務者の中から、王様に数百万ドルも借りがある人が連れてこられました。

25 He couldn’t pay, so his master ordered that he be sold -- along with his wife, his children, and everything he owned -- to pay the debt.

25 彼は支払うことができなかったので、主人は債務の支払いに充てるため、妻子とあらゆる持ち物と一緒に、そのしもべを売り払うように命じました。

26 “But the man fell down before his master and begged him, ‘Please, be patient with me, and I will pay it all.’

26 しかしその男は主人の前にひれ伏して乞い願いました。「どうか私に猶予をください。借金は全部払います」。

27 Then his master was filled with pity for him, and he released him and forgave his debt.

27 すると主人は彼を憐れに思って、彼を自由にし、借金を免除してあげました。

28 “But when the man left the king, he went to a fellow servant who owed him a few thousand dollars. He grabbed him by the throat and demanded instant payment.

28 ところがその男は王の元を出ると、自分に数千ドルの借金がある仲間のしもべのところへ行きました。男はその人の首をつかんで、即座に支払うように要求しました。

29 “His fellow servant fell down before him and begged for a little more time. ‘Be patient with me, and I will pay it,’ he pleaded.

29 仲間のしもべは男の前にひれ伏して、少しの猶予を乞いました。「どうか私に猶予をください。借金は払います」と彼は頼みました。

30 But his creditor wouldn’t wait. He had the man arrested and put in prison until the debt could be paid in full.

30 しかし男は待とうとしませんでした。そのしもべを捕まえて、債務が満額返済されるまで牢に入れました。

31 “When some of the other servants saw this, they were very upset. They went to the king and told him everything that had happened.

31 他のしもべの仲間たちはこれを見て、とても心配しました。彼らは王様のところへ行き、何が起こったか、すべてを話しました。

32 Then the king called in the man he had forgiven and said, ‘You evil servant! I forgave you that tremendous debt because you pleaded with me.

32 すると王様は自分が許してやった男を呼び入れて言いました。『おまえは邪悪なしもべだ。おまえが私に頼んだから、あの巨額の借金を許してやったのだ。

33 Shouldn’t you have mercy on your fellow servant, just as I had mercy on you?’

33 私がおまえにしてやったように、おまえも仲間のしもべに憐れみをかけるべきではないのか。」

34 Then the angry king sent the man to prison to be tortured until he had paid his entire debt.

34 そして怒った王様は、男を牢へ送り、借金の全額を払うまで責め苦を与えました。

35 “That’s what my heavenly Father will do to you if you refuse to forgive your brothers and sisters from your heart.”

35 あなたがもし自分の兄弟や姉妹を心から許すことを拒むなら、これが私の天の父があなた方にすることです。」



ミニミニ解説


マタイの福音書第18章です。

長いたとえ話ですが、途中で切れませんので、全部お送りしました。

前回の話に引き続き、これはマタイの教会のルールのようです。やはり今回も「他の信者があなたに対して罪を犯したら」という設定で、それを何回まで許すべきか、というペテロの質問の形になっています。ペテロは「7回ですか」とききますが、イエスさまは「70×7=490回だ」と答えます。まさか何回許したかを490回まで数える人はいないでしょうから、これは何度でも際限なく許しなさい、という意味でしょう。その理由が長いたとえ話として書かれています。

たとえ話の中では、王様に巨額の借金を棒引きにしてもらった召使いが、自分の方は貸し付けた借金を厳しく取り立てたために王様の怒りを買います。王様の言い分は、33節の「私がおまえにしてやったように、おまえも仲間のしもべに憐れみをかけるべきではないのか」です。

この王様はもちろん神さまのことで、神さまの召使いが私たち人間です。私たちは例外なく、神さまを繰り返しガッカリさせてきています。これは聖書では神さまに対して「罪(sin)」を犯したことになります。それで神さまから見れば、私たちはそういう罪にまみれた汚れた存在なので、神さまのいる神聖な天国へ入ることができません。ところが神さまは、その私たちの汚れを、イエスさまの十字架という手段を使って洗い流し、きれいさっぱりと全部を許してくださいました。神さまは、まるで私たちが何も罪を犯さなかったのごとく扱って、天国へ迎えようとしてくださっているのです。これが神さまが棒引きにしてくれた私たちの巨額の借金のことです。どれほどの寛大な許しでしょうか。であれば神さまが私たちにしてくださったように、私たちも自分たちの仲間を許してあげるべきではないのか、私たちが地獄へ行かなければならないほどの借りを帳消しにしてもらったのなら、腹立たしいことをする仲間を許すことがどれほどのことだと言うのか、それが今回のイエスさまのメッセージです。




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Matthew 18:15-20(マタイの福音書第18章15〜20節)

2011/10/19 23:55
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Matthew 18:15-20(マタイの福音書第18章15〜20節)


聖書の引用:英語[NLT]と私の日本語意訳の併記


Correcting Another Believer

他の信者を正すことについて


15 “If another believer sins against you, go privately and point out the offense. If the other person listens and confesses it, you have won that person back.

15 「もし、他の信者があなたに対して罪を犯したら、こっそり行って気を悪くしたことを指摘しなさい。もしその人が話を聞いて認めたら、あなたはその信者を取り戻したのです。

16 But if you are unsuccessful, take one or two others with you and go back again, so that everything you say may be confirmed by two or three witnesses.

16 しかしもしうまく行かなかったら、他に一人か二人を一緒に連れて再び戻り、あなたの話すことのひとつひとつが、二人か三人の証人によって確認されるようにしなさい。

17 If the person still refuses to listen, take your case to the church. Then if he or she won’t accept the church’s decision, treat that person as a pagan or a corrupt tax collector.

17 もしその人がそれでも聞くことを拒むなら、このことを教会に持ち込みなさい。そしてその人が教会の決定を受け入れようとしないのなら、その人を異教徒か、堕落した徴税人のように取り扱いなさい。

18 “I tell you the truth, whatever you forbid on earth will be forbidden in heaven, and whatever you permit on earth will be permitted in heaven.

18 あなた方に本当のことを言います。あなた方が地上で禁じることはすべて天国でも禁じられ、あなた方が地上で認めることはすべて天国でも認められるのです。

19 “I also tell you this: If two of you agree here on earth concerning anything you ask, my Father in heaven will do it for you.

19 あなた方にこれも言っておきます。あなた方の頼むことについてどんなことでも、あなた方の二人が同じ意見ならば、天国の父はあなた方のためにそれをしてくださいます。

20 For where two or three gather together as my followers, I am there among them.”

20 なぜなら二人か三人が私の信者として集まる所には、私もその中にいるからです。」



ミニミニ解説


マタイの福音書第18章です。

今回の話は「教会」についてです。ここで言う「教会」は、建物のことではなくて、集合的に「信者の集まり」のことです。マタイの福音書が書かれたのはイエスさまの十字架死〜復活を経て、数十年も経った後、イエスさまに関する良い知らせ(福音)を知らせる教会の活動が行われていた時代です。

今回と同じ部分の記述は「マルコ」には見当たらず、「ルカ」の中に、もしかしたらこれではないか、という部分が見つかります。Luke 17:3(ルカの福音書第17章3節)です。そこには「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい」([新改訳]) と書かれています。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ここは「マタイ」と「ルカ」に共通の記述が見つかるので、イエスさまの語録集である「Q資料」からの採用ということになります。おそらくとても短いルカの記述が「Q資料」の中のイエスさまの言葉に近く、マタイはこの語録を使って、自分たちの教会運用のルールとして大幅に編集して組み込んだのではないかと思います。エルサレムに出発する前のイエスさまが、数十年後の教会の運用についてここで意見を言うのはやや不自然な感じがしますので。

ここに書かれているルールは、「他の信者があなたに対して罪を犯したら」という設定で、その結果、あなたは「offense(気を悪くすること)」を感じるのです。この罪が具体的にどのようなことを指すのかは書かれていませんが、この人は最終的に教会の決定に従わなければ、異邦人として追放されてしまいます。きっと何か、自分が神さまを信じている気持ちを傷つけられるような、そんなことをしてあなたは神さまの前に恥ずかしくないのか、と言われてしまうような、そんな行為なのだと思います。

マタイの教会のルールは、そのようなときにはまず自分一人で行って、その人に告げるのです。その人が自分が悪かったと気がついて誤ったら許してあげます。ここはルカの記述と同じですね。ルカでは特に一対一で話しなさい、とは言っていませんが。マタイはその人が罪を認めない場合の続きをつけ加えています。そのときには教会のメンバーを一人か二人連れて行って、その人に同じことを言うのです。これはマタイの教会が独自に作ったルールではなくて、旧約聖書の考え方に基づいているのではないかと思われます。たとえば殺人を犯した者を死刑にせよ、と言う記述が、Numbers 35:30(民数記第35章30節)にあります。「もしだれかが人を殺したなら、証人の証言によってその殺人者を、殺さなければならない。しかし、ただひとりの証人の証言だけでは、死刑にするには十分でない」([新改訳])。このように人を死刑にするには必ず複数の証人が必要なのです。ユダヤ民族は法を執行するためにはいつも証人を用意したのではないかと思います。なので特にユダヤ人の保守系の共同体を母体としたと思われるマタイの教会は、この複数の証人のルールを重視したのではないかと思います。

マタイの教会では証人を伴って、その人の非を咎めても、その人が自分の非を認めなかった場合は教会の出番です。そして教会がその人に有罪を告げるのです。判決は「その人を異教徒か、堕落した徴税人のように取り扱いなさい」です。これはつまりその人を共同体から追放せよ、ということです。

18節はマタイの第16章でペテロがイエスさまを「あたなはメシア、生ける神の子です」と証言した場面で登場しています。Matthew 16:15-19(マタイの福音書第16章15〜19節)です。「15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」 16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」 17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています」([新改訳]) 。第16章を読んだとき、15〜16節は「マルコ」から採用で、17〜19節はマタイ独自の資料であろう、と書きましたが、実はヨハネにも似た箇所があるのです。John 20:23(ヨハネの福音書第20章23節)です。「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります」([新改訳])」。ここから考えられるのは、この言葉はイエスさまの言葉であり、イエスさまが弟子たちに権能を授けたときに言われた言葉なのかも知れない、と言うことです。つまり当時のイエスさまの信じる教会では、天国のイエスさまの下す判決の代行権を授かっている、と考えていたのかも知れません。

19節はやはり神さまに対してお願いをするときには、自分だけの独りよがりの意見ではなく、誰かもう一人の証人が必要だという、ユダヤ教のルールが込められているように思えます。20節ではイエスさまが弟子たちの教会に与えた権能や、承認を得た祈りが叶えられる根拠として、そこには自分がいるからだと言っています。これは十字架死を経て復活し、天国へ戻ったイエスさまのことです。イエスさまは天国で私たち人間と創造主である神さまとの橋渡しをしてくださっています。イエスさまを信じる人の願いは、イエスさまがすべて神さまに取り次いで伝えてくださいます。そして神さまはそれに対するアクションを必ずとってくださるのです。お祈りや願いには叶うものも、叶わないものもあるのではなくて、神さまのとられるアクションがあまりにも深遠なので、私たちの理解を超越しているのです。神さまは全知全能で、時間を超越していて(過去と現在と未来に同時に存在しています)、神さまご自身も、私たちひとりひとりの魂も、永遠に生き続けるという前提でアクションをとられます。だとしたら私たちが性急に結果を求める願いが、わかりやすい答えとして現れないことも十分に考えられます。が、神さまを信じる人の祈りは、ひとつひとつすべてが回答されているのです。なぜなら神さまは私たちの想像を絶するくらい誠実な方だからです。




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Matthew 8:12-14(マタイの福音書第8章12〜14節)

2011/10/12 23:55
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Matthew 8:12-14(マタイの福音書第8章12〜14節)


聖書の引用:英語[NLT]と私の日本語意訳の併記


Parable of the Lost Sheep

いなくなった羊のたとえ話


12 “If a man has a hundred sheep and one of them wanders away, what will he do? Won’t he leave the ninety-nine others on the hills and go out to search for the one that is lost?

12 「もしある人が羊を百匹持っていて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人はどうするでしょうか。丘に九十九匹を残して、いなくなった一匹を探すために出て行かないでしょうか。

13 And if he finds it, I tell you the truth, he will rejoice over it more than over the ninety-nine that didn’t wander away!

13 そしてもしその一匹を見つけたとしたら、あなた方に本当のことを言いますが、彼は迷い出なかった九十九匹の羊のこと以上に、その一匹を喜ぶのです!

14 In the same way, it is not my heavenly Father’s will that even one of these little ones should perish.

14 同じように、この小さい者たちのたった一人でも滅びることは、私の天の父の意図するところではありません。



ミニミニ解説


マタイの福音書第18章です。

この章はイエスさまがいよいよエルサレムへ出発する前に、カペナウムで語られたという形でイエスさまの語録集を収めています。前回までは人が天国に入るための条件と、人が地獄へ落とされる可能性についての話でした。そして、その地獄へ落とされる可能性の話の中では、イエスさまを信じる「小さな者」たちのひとりでも、その人が罪に落ちるようにさせてしまうとしたら、その人は首に大きな石臼をくくりつけられて海の深みでおぼれ死んだほうがましだ、と書かれていました。ここに書かれている「小さな者」と言うのは、取るに足らないちっぽけな存在の意味です。2000年前のイスラエルでは、たとえば女性も子供も人権や人格を与えられておらず、ときには売買の対象にさえなっていました。「取るに足らないちっぽけな存在」とはまさしくそういう存在のことを言っています。平等で豊かなことが当たり前のいまの日本の世の中ではちょっと想像することが難しいかも知れませんが。今回の、いなくなった羊のたとえ話では、神さまがそういうちっぽけな存在の一人をも気にかけているのだ、という話です。

今回と同じ部分の記述は「マルコ」には見当たらず、「ルカ」に見つかります。Luke 15:3-7(ルカの福音書第15章3〜7節)です。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、ここはイエスさまの語録集である「Q資料」からの採用ということになります。ルカの中でも、この話が登場する15章は前回までの引用箇所から離れていて、マタイとルカが「Q資料」から引用したイエスさまの語録を、それぞれ独自に編集して福音書に組み込んだことがうかがえます。ルカを見てみます。「3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。4 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。5 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、6 帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。 7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです」([新改訳]) 。

同じ迷子になった一匹の羊を探し出す話なのですが、マタイとルカではちょっと文脈が違う印象を受けます。もし百匹の中の一匹の羊がいなくなったら、その一匹を探しに行き、その探していた一匹が見つかったとしたら、迷子にならなかった九十九匹のことよりも喜びはうれしい、という話です。この迷子になった一匹を、ルカは「悔い改めたひとりの罪人」とし、残りの九十九人を「悔い改める必要のない九十九人の正しい人」としています。この世の中に悔い改める必要のない人と言うのは存在しませんから、ここは「悔いあたらためる必要はないと自分で思っている人」の意味でしょう。自分はいまのままで、十分に神さまに喜ばれている、神さまをガッカリさせることなどしていないと思っている、つまりは傲慢な人たちのことです。そういう人たちよりも、謙虚に自分の罪を認めて改める人を神さまは喜ぶのだよ、と言う話になっています。一方、マタイは迷子になった一匹を「小さい者=取るに足らないちっぽけな者」にたとえます。つまり神さまには大切に思わない人など一人もいない、社会で取るに足らないとされている「小さな者」だってきちんと気にかけているのだよ、という話にしています。




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Matthew 18:6-11(マタイの福音書第18章6〜11節)

2011/10/05 18:27
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Matthew 18:6-11(マタイの福音書第18章6〜11節)


聖書の引用:英語[NLT]と私の日本語意訳の併記


6 But if you cause one of these little ones who trusts in me to fall into sin, it would be better for you to have a large millstone tied around your neck and be drowned in the depths of the sea.

6 しかし、あなた方が、私を信じる小さな者たちのひとりでも罪に落ちるようにさせるのなら、自分の首に大きな石臼をくくりつけられて、海の深みでおぼれ死んだほうがましです。

7 “What sorrow awaits the world, because it tempts people to sin. Temptations are inevitable, but what sorrow awaits the person who does the tempting.

7 どれほどの悲しみが世を待ち受けているでしょうか。なぜなら世は人々に罪を犯すようにと企てるからです。誘惑は避けられません。が、誘惑を行う者をどれほどの悲しみが待ち受けているでしょうか。

8 So if your hand or foot causes you to sin, cut it off and throw it away. It’s better to enter eternal life with only one hand or one foot than to be thrown into eternal fire with both of your hands and feet.

8 だからもし、あなたの手か足があなたに罪を犯させるのなら、それを切り落として捨てなさい。両手両足を持って永遠の火に投げ込まれるよりは、片手か片足で永遠の命へ入る方が良いのです。

9 And if your eye causes you to sin, gouge it out and throw it away. It’s better to enter eternal life with only one eye than to have two eyes and be thrown into the fire of hell.

9 そしてもし、あなたの目があなたに罪を犯させるのなら、それをえぐり出して捨てなさい。両目を持って永遠の火に投げ込まれるよりは、片目で永遠の命へ入る方が良いのです。

10 “Beware that you don’t look down on any of these little ones. For I tell you that in heaven their angels are always in the presence of my heavenly Father.

10 このような小さな者たちのどんな者でも、見下したりしないように気をつけなさい。なぜならあなた方に言いますが、天国では彼らの天使たちが、いつも天国の私の父の前にいるからです。

11 [And the Son of Man came to save those who are lost.]

11 [そして人の子は、失われた者たちを救うために来たのです。]



ミニミニ解説


マタイの福音書第18章です。

ここは前回の1〜5節で、イエスさまから提示された天国に入るための条件、「自身の罪を自覚して改めること」「小さな子供のようになること(=純真無垢の存在になるという意味ではなく、社会の最下層の奴隷同然のちっぽけな存在に自分の身を置くこと)」の続きの部分です。

今回と同じ部分の記述は「マルコ」に見られます。マルコは前回の続きにあたる、Mark 9:38-41(マルコの福音書第9章38〜41節)の4節分は引用されず、その次のMark 9:42-48(マルコの福音書第9章42〜48節)が該当箇所です。引用されなかった4節に書かれていた内容は、自分たちに以外にもイエスさまの名前を使って悪霊を追い出している者がいる、との報告が弟子から入りますが、イエスさまはそれに対して「その人たちは自分たちの味方だ」と言うくだりです。

では、マルコの今回の部分を読んでみましょう。「42 また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。43 もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片手でいのちに入るほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。44 {そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。} 45 もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちに入るほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。46 {そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。} 47 もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国に入るほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。48 そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません」([新改訳]) 。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、マタイはこの部分をマルコから採用しながら、オリジナルの記述を少し編集を加えていることがわかります。

今回書かれているのは、前回の天国に入るための条件に対比して、人が地獄に落とされる可能性についての記述になっています。その可能性とは、6節に「私を信じる小さな者たちのひとりでも罪に落ちるようにさせる」こととあり、7節ではこれを言い換えて「誘惑を行う者」と書いています。7節はマタイが独自に追加した部分です。ではどのような人が「人を罪に落とさせる人」や「誘惑を行う者」なのでしょうか。これについては具体的な説明がありませんので類推せざるを得ません。「人を罪に落ちるようにさせる」を類推するには、まず、聖書に言う「罪(sin)」の意味の確認になりますが、これは何度も書いてきたように「神さまをガッカリさせること」全般です。それでは果たして何が神さまをガッカリさせるのか、その判断は大変難しいです。ですが私たちには誰にも漠然と感じられる「良心」があります。神さまは最初に人間を創造されたときに、ご自身の姿に似せて創造されたとあります(Genesis 1:26/創世記第1章25節)。これが地球上で人間だけがほかの動物と違う生き方をする理由です。そしてどうやら、何が善であるか悪であるかは、わざわざ聖書を読むまでもなくひとりひとりの人間の心に神さまが書き込んでくださっているのです。人のものを盗んだり、人を傷つけたり、人を裏切ったり、そういうことが悪であると、私たちはいつの間にか知っています。これが神さまが私たちの心に書いてくださった善悪の基準です。聖書を読むと、その基準がより明確にわかります。

イエスさまが今回話している「人が地獄に落とされる可能性」とは、そういう悪を行う人ではなくて、そういう悪を人に行わせる、そんな誘惑をする人のことです。ですがこれも難しい。いったい自分のどんな行動が、人を悪へ誘ってしまうのか、それはとてもわかりません。ですがビクビクして生きていても仕方ありません。私が大切だと思うのは、神さまの目を意識して生きることです。自分の言動は、果たしていま神さまの目に正しく映っているだろうか、できるだけその意識を絶やすことなく生きるのです。そのときに神さまと会話ができればもっと良いと思います。「どうですか。いまの私は神さまの目にどのように映っていますでしょうか。どうか私が神さまをガッカリさせることのないように私を導き助けてください。私のすることや言うことが神さまに栄光をもたらすことができるように、私をたくさん祝福してください」と心の中で神さまと会話しながら生きるのです。少なくともこのような姿勢で生きようとする自分が、神さまにとって少しでも喜びであるとうれしいのですが。

続く8節からは、手を切り落としてしまえ、足を切り落としてしまえ、目をえぐり出してしまえ、とイエスさまの大変恐ろしい言葉が続きます。これらが私たちに罪を犯させるものだと言うのです。まず「目」。私たちの目はキョロキョロと忙しく動いて、自分を罪に走らせる情報を次々と拾い集めてきます。自分が持っていない者を所有している他人の姿、自分の気に入らないことをする他人の姿、そして美しい異性の姿。そういう情報が次々と目から飛び込んできて、他人を羨ませたり、憎ませたり、不道徳な気持ちを抱かせたりします。次に「足」です。あれが欲しい、あの人が憎い、あの異性に近づきたい、「目」から入った情報から生じた気持ちを育てていくと、自分はついに「足」を動かして行動を起こし、目的の対象へと近づいて行きます。そして最後に「手」。いよいよ最後の最後に私たちは手に入れたいものや人に手を伸ばして、不当に手に入れてしまう。あるいは自分の手で人を傷つけてしまう。

だったら、目も足も手もなければ、罪の犯しようがないではないか、だからいっそのこと切り落としてしまえ、その方が罪を犯すよりはましでしょう、というのがここのメッセージです。でもどうでしょうか。果たして自分の手足を切り落とし、目をえぐり出したら、自分の罪は止まるのでしょうか。そんなことはないと思います。手に入る情報ならなんでも使って妄想を膨らませ、なんとかそれを行動に移す方法はないものかと、残された身体を使ってあらゆる画策をする、それが人間の姿だからです。そもそも神さまは人の心をご覧になる方です。だから、自分で妄想を育て始めた時点で、目や手足があってもなくても、自分はもう神さまをガッカリさせてしまっているのです。だからここの部分は、実際に手足を切り落とせとか、目をえぐり出せと言っているのではないと思います。そういうことをした弟子の記述も聖書にはどこにもありません。それくらいの覚悟を持って罪と対峙しなさい、自分で罪を何とかできるなどとは思わず、罪に至りそうな可能性を感じたら一目散に逃げなさい、聖書はそう教えています。

人が落とされる地獄の記述はマルコの中に大変恐ろしく書かれています。そこでは落とされた人を食ううじが尽きることがなく、火も消えることがないのです。人の魂は不滅ですから、地獄に落とされた人は永遠にうじに食われ、火に焼かれることになります。私はそんなところへは行きたくありません。

最後の10節と11節は、マタイ独自の追加のようです。




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Matthew 18:1-5(マタイの福音書第18章1〜5節)

2011/09/28 23:55
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Matthew 18:1-5(マタイの福音書第18章1〜5節)


聖書の引用:英語[NLT]と私の日本語意訳の併記


The Greatest in the Kingdom

王国で一番偉い人


1 About that time the disciples came to Jesus and asked, “Who is greatest in the Kingdom of Heaven?”

1 そのころ、弟子たちがイエスさまのところに来てたずねました。「天の王国で、一番偉いのは誰ですか。」

2 Jesus called a little child to him and put the child among them.

2 イエスさまは小さな子どもを呼んで、子供を弟子たちの中に立たせました。

3 Then he said, “I tell you the truth, unless you turn from your sins and become like little children, you will never get into the Kingdom of Heaven.

3 イエスさまは言いました。「あなた方に本当のことを言います。あなた方が自身の罪から向き直り、小さな子どもたちのようにならなければ、決して天の王国には入れません。

4 So anyone who becomes as humble as this little child is the greatest in the Kingdom of Heaven.

4 ですから、この子どものようにつつましくなる者が、天の王国で一番偉い人です。

5 “And anyone who welcomes a little child like this on my behalf is welcoming me.

5 そして、このような小さな子どもを、私ゆえに喜んで受け入れる者は、私を喜んで受け入れるのです。



ミニミニ解説


マタイの福音書第18章です。

イエスさまは二度にわたり、自分の死を予告し、いよいよエルサレムへ向けて出発しようとしています。マタイでは第18章に、イエスさまがエルサレムへ出発する前にカペナウムで語られた形で、イエスさまの語録集を収めています。

今回と同じ部分の記述は「マルコ」と「ルカ」に見られます。まずマルコから読んでみましょう。マルコは前回の続きにあたる、Mark 9:33-41(マルコの福音書第9章33〜41節)です。「33 カペナウムに着いた。イエスは、家に入った後、弟子たちに質問された。「道で何を論じ合っていたのですか。」 34 彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。35 イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」 36 それから、イエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱き寄せて、彼らに言われた。37 「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです」」([新改訳])。

ルカは大変短くて、やはり前回の続きで、Luke 9:46-48(ルカの福音書第9章46〜48節)です。「46 さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。47 しかしイエスは、彼らの心の中の考えを知っておられて、ひとりの子どもの手を取り、自分のそばに立たせ、48 彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです」([新改訳])

「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、マタイはこの部分をマルコから採用しながら、オリジナルの記述をばっさりと省略していることがわかります。マルコでは弟子たちは「誰が一番偉いのか」を論じ合っていて、イエスさまから「何を論じ合っていたのか」と問われて、恥ずかしくて答えられずに沈黙するのですが、マタイではその部分は割愛されて、いきなり弟子の質問からスタートしています。その間、イエスさまが話された「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい」という大切な言葉も省略されてしまっています。

弟子たちは「誰が一番偉いのか」を論じ合っていたのでした。これはどこにでもあるふつうの議論ですね。子供たちの遊び仲間の間でも、夫婦間でも、仲間内でも、会社でも、口に出そうと出すまいと、みんな「誰が一番偉いのか」を問題にしています。弟子たちの議論は、いまエルサレムに向かおうとしているこの瞬間、誰が一番偉いのかを話していたのかも知れませんし、やがて来るイエスさまが復活させるイスラエル王国の中で、誰が一番上の位に取り立てられるべきかを話していたのかも知れません。あるいはイエスさまが自分の死を予告し始めたので、イエスさまがいなくなった後、誰がグループを仕切るのか、それを話していたのかも知れません。これに対するイエスさまの答えは、マルコではイエスさま特有の謎かけに様な答えになっていました。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい」。今回、マタイはこの部分を省略していますので、私の解説も省略します。

マタイでのイエスさまは、弟子たちが「天の王国で、一番偉いのは誰ですか」と質問したのに対し、小さな子供を一人連れてきて、 「あなた方が自身の罪から向き直り、小さな子どもたちのようにならなければ、決して天の王国には入れません」と答えています。まず驚かされるのは、弟子たちが当然の前提としていた「天の王国入り」について、二つの条件が提示されたことです。第一に「自身が罪から向き直ること」、第二に「小さな子どもたちのようになること」、この二つの条件が満たされなければ、天の王国に入ることができないのです。王国に入れなければその中で上になるとか下になるとか、その議論自体に意味がありません。イエスさまが私たちがこだわるべき最大の関心事としているのは、上とか下とかではなくて、天の王国に入ること(天国に行くこと)、そこで神さまと一緒になることです。

天の王国に入るための最初の条件、「自身が罪から向き直ること」は、旧約聖書の中の預言者たちが、また福音書では洗礼者ヨハネが、繰り返しユダヤ人に訴えかけたメッセージです。まず自分の罪を認めること、ここで言う「罪(sin)を認める」とは自分がどれほど神さまの期待を裏切ってガッカリさせて来たかに気づくことです。そしてそのことを心の底から深く悔いて申し訳ないことをしてきたと思うこと、そしてさらにその罪と決別して、これから先は、神さまの目の中に正しく映る道を歩む、とそう心に決めることです。

天の王国に入るためのもう一つの条件は「小さな子どもたちのようになること」です。これは子供のように純粋無垢な心を持つ、と言う意味ではありません。これは2000年前のイスラエルで語られた言葉です。当時の小さな子供は「純粋無垢な心」の象徴ではありません。ローマ帝国の支配下にあって、成人前の子供は奴隷同然の扱いでした。これは女性についても同様です。そのような状況下で女性や子供にスポットライトを当てる聖書という書き物は革命的な本なのです。子供に話を戻します。当時の子供は奴隷同然の存在でした。ときには売買さえされました。だとすれば「小さな子どもたちのようになる」とは、社会の最下層の奴隷同然のちっぽけな存在に自分の身を置く、そういうことです。いまこの時代に思い浮かべられる人権も与えられない最下層の存在とは何でしょうか。そこに思いをはせてみてください。そして自分をその対象と同じ立場に置くこと、これが天国に入るための第二の条件です。これは説明を省略したマルコに書かれていたイエスさまの言葉、「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい」にもつながります。

イエスさまによれば、自分の罪を認めてそこから向き直ることのできる人、自分をちっぽけなつまらない存在に置くことができる人が、神さまの王国に入れるのです。5節では、「このような小さな子どもを、私ゆえに喜んで受け入れる者は、私を喜んで受け入れる」と書かれています。ここでは「私ゆえに」、つまりイエスさまとの関わりを理由として、世の中の最下層の存在を受け入れることができる者、そういう人がイエスさまを喜んで受け入れる人だと言っています。 マルコではここは「わたしの名のゆえに受け入れる」となっていて、これはイエスさまの名代(代理人)として、そういう存在を受け入れることができる人、の意味でしょう。




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我が家に猫が増えました。二匹目です。

2011/09/26 12:12
仕事と勉強が忙しくて、しばらく更新できていませんが、たいへんなイベントが発生しましたので、急遽、更新します。

なんと、我が家に猫が増えました。昨日。二匹目です。

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ペルシャのオスです。7月の終わりに生まれたので、いま二ヶ月弱。名前は英太(エイタ)。

毛はチンチラゴールデン。って、これは我が家の一匹目の猫(銀次:四歳)とまったく同じスペックです。

ところが、性格はまったく違います。

銀次が我が家に来たときにはず〜っと物陰に隠れていて、オシッコするのに3日も4日もかかったのに、英太は着いて早々にオシッコして、夕飯をガツガツ食べるとアっという間にウンチもしました。

いまはお湯でふやかしたキャットフードを食べてますが、二週間くらいで固形のまま食べるようになるそうなので、そうなるとこのままでは大人用の銀次のエサを盗んで食うようになるでしょうな・・・(銀次は小食なので一日かけて少しずつ食べます)。で、英太はデブネコになっちゃうかも。デブでヤンチャなペルシャ(笑)!

英太が来て、銀次はどうするかな〜と思って、そっちの方が心配でしたが、いまのところケージの中の英太を、そばでただず〜っと見てます。ときどき英太がケージ越しに仕掛けたりしますが、まったく動じない様子。何を考えているのだろう(笑)。なんだかケージの中に入りたそうですが(笑)。英太の二回目の予防接種が終わる、10月の中旬くらいにケージを外す予定ですが、まぁ、そのときまでにはお互いに慣れるでしょう。

楽しみ。



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台風15号(ロウキー)が日本列島を直撃。

2011/09/22 23:55
台風が接近中、って、日本へ近づいている台風なんてなかったでしょ、と思ったら、「台湾方面へ抜けます」と言っていた15号(ロウキー)が、90度のあり得ない右折で日本へやって来たのでした。

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で、日本列島を直撃。ほぼ西東京の真上を抜けてます・・・。今年の日本列島はなんという災難続き。

東京の電車は、ほぼ全部ストップ。カミさんにメールを出して、「緊急帰宅命令」が出た会社まで迎えに来てもらいました。が、車に乗っていても、風でガタガタ揺れて怖い怖い。

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この写真のすぐ後、国道16号線を走っていたら、うちの車の前方20メートル位を、風に飛ばされたテントがグルングルン回転しながら、左から右へ横切っていきました。あと5秒先を走っていたら直撃。あぶなかった。

この台風は生涯体験した台風でもトップクラスのやばさでした(高校生くらいのときに家の周囲の木が倒れたすごいのあった記憶があるが・・・)。



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Matthew 17:22-27(マタイの福音書第17章22〜27節)

2011/09/21 13:00
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Matthew 17:22-27(マタイの福音書第17章22〜27節)


聖書の引用:英語[NLT]と私の日本語意訳の併記


Jesus Again Predicts His Death

イエスさまが再び死を予告する


22 After they gathered again in Galilee, Jesus told them, “The Son of Man is going to be betrayed into the hands of his enemies.

22 一行がガリラヤ地方で再び集合した後で、イエスさまは弟子たちに言いました。「人の子は裏切られて敵の手に渡されるのです。

23 He will be killed, but on the third day he will be raised from the dead.” And the disciples were filled with grief.

23 そして殺されますが、三日目に死者の中からよみがえります。」 弟子たちは深い悲しみに満たされました。



Payment of the Temple Tax

寺院税の支払い


24 On their arrival in Capernaum, the collectors of the Temple tax came to Peter and asked him, “Doesn’t your teacher pay the Temple tax?”

24 一行がカペナウムに到着すると、寺院税の徴税人がペテロのところに来て言いました。「あなた方の先生は寺院税を払わないのですか。」

25 “Yes, he does,” Peter replied. Then he went into the house. But before he had a chance to speak, Jesus asked him, “What do you think, Peter? Do kings tax their own people or the people they have conquered?”

25 ペテロは答えました。「払います。」 ペテロは家に入りました。しかしペテロが話し出す機会を見つけるより先に、イエスさまがたずねました。「ペテロよ、どう思いますか。王は自分の人民に税を課すでしょうか。あるいは征服した人たちに課すでしょうか。」

26 “They tax the people they have conquered,” Peter replied. “Well, then,” Jesus said, “the citizens are free!

26 ペテロは答えました。「王は征服した人たちに税を課します。」 イエスさまは言いました。「そうか。では市民は免税です。

27 However, we don’t want to offend them, so go down to the lake and throw in a line. Open the mouth of the first fish you catch, and you will find a large silver coin. Take it and pay the tax for both of us.”

27 だが、彼らを怒らせたくありません。なので、湖に行って釣りをしなさい。最初に釣った魚の口を開けると、大きな銀の硬貨が見つかります。それを取って、私とあなたの前金を払いなさい。」



ミニミニ解説


マタイの福音書第17章の最後です。

今回の部分は、「イエスさまの死の予告」と「寺院税」の二つの話ですが、最初の「イエスさまの死の予告」部分は同じ記述が「マルコ」と「ルカ」に見られますが、「寺院税の話」はマタイにだけに登場する話です。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、「イエスさまの死の予告」は、「マルコ」からの採用ですが、「寺院税の話」はマタイ独自の資料ということになります。

まず「イエスさまの死の予告」の部分を読んでみましょう。マルコは前回の続きにあたる、Mark 9:30-32(マルコの福音書第9章30〜32節)です。「30 さて、一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。イエスは、人に知られたくないと思われた。31 それは、イエスは弟子たちを教えて、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる」と話しておられたからである。32 しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた」([新改訳])。ルカはやはり前回の続きで、Luke 9:43-45(ルカの福音書第9章43〜45節)です。「43 人々はみな、神のご威光に驚嘆した。イエスのなさったすべてのことに、人々がみな驚いていると、イエスは弟子たちにこう言われた。44 「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。」 45 しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていたのである。また彼らは、このみことばについてイエスに尋ねるのを恐れた」([新改訳])。イエスさまによる自分の死の予告は第16章に続いてこれで二回目です。前回同様、弟子たちは驚きと悲しみに包まれますが、弟子たちはイエスさまの言葉の真相が理解できず、また怖くてイエスさまにたずねることもできません。

続く、「寺院税の話」ですが、寺院税というのはユダヤ人の成人男子が、エルサレムの寺院の維持管理のために納める税金でした。徴税人は各町にいたようです。
・イエスさまの一行がカペナウムに到着すると、この町の徴税人が、「税金を払わないのか」と質問してきます。これはユダヤ人ならユダヤ人としてのルールを守るのだろうな、という詰問だと思います。ペテロは「払います」とだけ言ってその場をごまかして家に入りますが、師に、お金の工面の話をする機会を見つけられないでいるうちに、イエスさまの側からきかれます。「王は自分の人民に税を課すでしょうか。あるいは征服した人たちに課すでしょうか」。英文の「王」は「kings」となっていて、定冠詞のない複数形ですから、「一般的に世の中の王たちは」の意味だと思います。王は周辺国を征服したら、その国の外国人から搾取して自国を豊かにするだろう、と言うのです。この質問は、寺院税にまつわる話に紐付いているので、「寺院」を管轄する王を想定しなければなりません。それは神さまのことです。イエスさまは「では市民は免税です(the citizens are free!)」と言っていますので、これはつまり自分たちはすでに、神さまの王国の市民である、と宣言していることになります。ですがイエスさまはわざわざことを荒立てることはせず、ペテロにガリラヤ湖で釣りをさせ、魚の口の中から見つかる銀貨で税金を払うように指示します。




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アニバーサリー・ブレンド。シールがかわいいよ。

2011/09/15 13:51
今年もスターバックスはアニバーサリー・ブレンドの季節。秋が近い。

買ってきた豆を密閉容器に入れようと思ったら、なんだかシールがかわいいよ(笑)。(写真背景のグリーンの色は、Windows7のログイン画面)

画像


アニバーサリー・ブレンドの説明はこちら。「アジア/太平洋産コーヒーとエイジド インドネシアコーヒーの、複雑で力強い、豊かなコクのブレンド」とあります。旨いはずだ、好きなはずだ(笑)。

店頭に並んでいた、グリーンのタンブラーも、久々にかわいかった。欲しい(笑)。



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Matthew 17:14-21(マタイの福音書第17章14〜21節)

2011/09/14 23:55
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Matthew 17:14-21(マタイの福音書第17章14〜21節)


聖書の引用:英語[NLT]と私の日本語意訳の併記


Jesus Heals a Demon-Possessed Boy

イエスさまが悪魔に取り憑かれた少年を癒やす


14 At the foot of the mountain, a large crowd was waiting for them. A man came and knelt before Jesus and said,

14 山の麓でたくさんの群衆が一行を待っていました。男の人がひとり、イエスさまのところへ来てひざまずいて言いました。

15 “Lord, have mercy on my son. He has seizures and suffers terribly. He often falls into the fire or into the water.

15 「主よ。私の息子をあわれんでください。発作が出て、ひどく苦しんでいます。何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりするのです。

16 So I brought him to your disciples, but they couldn’t heal him.”

16 そこで、その子を主の弟子の方々のところへ連れて行きましたが、治すことができませんでした。」

17 Jesus said, “You faithless and corrupt people! How long must I be with you? How long must I put up with you? Bring the boy here to me.”

17 イエスさまは言いました。「あなた方は不信仰で堕落した人たちです。どのくらいの間、私はあなた方といっしょにいなければならないのですか。どのくらいの間、あなた方にがまんしなければならないのですか。その子を私のところに連れて来なさい。」

18 Then Jesus rebuked the demon in the boy, and it left him. From that moment the boy was well.

18 それからイエスさまは、その子の中の悪魔を叱りつけ、悪魔はその子から出て行きました。そのときからその子は具合が良くなりました。

19 Afterward the disciples asked Jesus privately, “Why couldn’t we cast out that demon?”

19 後で弟子たちはイエスさまにこっそりたずねました。「なぜ私たちにはあの悪魔を追い出せなかったのですか。」

20 “You don’t have enough faith,” Jesus told them. “I tell you the truth, if you had faith even as small as a mustard seed, you could say to this mountain, ‘Move from here to there,’ and it would move. Nothing would be impossible.”

20 イエスさまは弟子たちに言いました。「あなた方には十分な信仰がないのです。あなた方に本当のことを言います。もしあなた方に、ほんのからし種ほどの大きさの信仰があったら、あなた方はこの山に向かって『ここからあそこへ移れ』と言えるのです。そして山は移ります。不可能なことはありません。」

21 [But this kind of demon won’t leave except by prayer and fasting.]

21 [ですが、この種の悪魔は祈りと断食によらなければ出て行きません。]



ミニミニ解説


マタイの福音書第17章です。前回、イエスさまはペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子だけを連れてピリポ・カイザリヤの近くの山に登り、おそらく山中でお祈りをしている間にイエスさまの顔が太陽のように輝き、衣服が光のように白くなる「変容」が起こりました。今回はその後で彼らが山から下りてきたところの場面です。

今回と同じ記述は「マルコ」と「ルカ」に見られます。マルコは前回の続きにあたる、Mark 9:14-29(マルコの福音書第9章14〜29節)です。「14 さて、彼らが、弟子たちのところに帰って来て、見ると、その回りに大ぜいの人の群れがおり、また、律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた。15 そしてすぐ、群衆はみな、イエスを見ると驚き、走り寄って来て、あいさつをした。16 イエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を議論しているのですか」と聞かれた。17 すると群衆のひとりが、イエスに答えて言った。「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、先生のところに連れて来ました。18 その霊が息子にとりつくと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それでお弟子たちに、霊を追い出すよう願ったのですが、できませんでした。」 19 イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」 20 そこで、人々はイエスのところにその子を連れて来た。その子がイエスを見ると、霊はすぐに彼をひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回った。21 イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです。22 この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」 23 するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」 24 するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」 25 イエスは、群衆が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊をしかって言われた。「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」 26 するとその霊は、叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて、出て行った。するとその子が死人のようになったので、多くの人々は、「この子は死んでしまった」と言った。27 しかし、イエスは、彼の手を取って起こされた。するとその子は立ち上がった。28 イエスが家に入られると、弟子たちがそっとイエスに尋ねた。「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。」 29 すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈り{と断食}によらなければ、何によっても追い出せるものではありません」([新改訳])。

今回の部分の最後に書かれている、「信仰があれば山に向かって動けと言えば動く」の部分はマルコのほかの部分に書かれています。これは一行がエルサレムに到着した直後の場面です。Mark 11:19-24(マルコの福音書第11章19〜24節)です。「19 夕方になると、イエスとその弟子たちは、いつも都から外に出た。20 朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。21 ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」 22 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。24 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」([新改訳])。

ルカはLuke 9:37-42(ルカの福音書第9章37〜42節)です。「37 次の日、一行が山から降りて来ると、大ぜいの人の群れがイエスを迎えた。38 すると、群衆の中から、ひとりの人が叫んで言った。「先生。お願いです。息子を見てやってください。ひとり息子です。39 ご覧ください。霊がこの子に取りつきますと、突然叫び出すのです。そしてひきつけさせてあわを吹かせ、かき裂いて、なかなか離れようとしません。40 お弟子たちに、この霊を追い出してくださるようお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。」 41 イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。あなたの子をここに連れて来なさい。」 42 その子が近づいて来る間にも、悪霊は彼を打ち倒して、激しくひきつけさせてしまった。それで、イエスは汚れた霊をしかって、その子をいやし、父親に渡された」([新改訳])。

「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、今回の部分は、「マルコ」からの採用ですが、マタイはマルコの記述をかなり簡略化していることがわかります。また最後の部分は別の箇所から引用して組み合わせて編集しています。

14節、山を下りてきたイエスさまのところへ男が一人歩み寄ってきます。マタイでは省略されていますが、山を下りてきたイエスさまたちが目撃したのは、麓に残してきたほかの弟子たちがぐるりと群衆に取り囲まれていて、その輪の中心では律法学者、つまりファリサイ派の人たちが弟子たちに議論を仕掛けている、そんな場面でした。15〜16節で、この男はイエスさまに自分の息子を助けてほしいと願い、実は弟子のところへ連れて行ったのだけれど、弟子たちには解決できなかったのだ、と話します。ということはたくさんの群衆を集めて行われていた議論とは、子供を助けることのできなかった弟子たちに、好機とばかりにファリサイ派が言いたい放題の議論を仕掛け、弟子たちはどうすることもできずに窮地に立たされていたのではないか、と考えられます。

マタイでは省略されていますが、オリジナルのマルコでは山から下りてきたイエスさまを見た群衆が「驚いた」と書かれています。イエスさまは山上で、神さまとの深く長い祈りの途中で姿が変容し、その過程を経て、おそらく何か並々ならぬ威厳のようなものをまとったのではないかと思います。17節でイエスさまが人々の不信仰を嘆き怒りますが、これは、いつまでも「信仰」の意味を理解しないまま癒やしや悪魔払いの施術を行っている弟子たちについても、それがひとたびうまくいかないところを見つけると軽率な議論を仕掛けるファリサイ派についても、そしてその議論を楽しむかのように取り巻いて見ている群衆に対しても、悲しみ、怒っているのでしょう。イエスさまは神さまとの会話を経て、いよいよ重大な決心を固めてエルサレムへ出発しようとしているのです。いまここに旧約聖書の預言がことごとく実現する史上最大のイベントが幕を開けようとしています。それなのにいつまでも理解するそぶりさえ見せずに、次元の違う議論を続ける人々を見て、嘆き怒っているのです。18節、イエスさまは子供の中の悪霊を叱りつけ、悪霊は子供から去って行きます。イエスさまは100%、神さまへの信仰の上に立って生きている存在です。神さまの意志をなし、神さまの目に正しく映る存在です。だからイエスさまの命じることは、神さまがすべて実行してくださるのです。

19節で、弟子たちはどうして自分たちには悪霊を追い出せなかったのか、とイエスさまにたずねます。イエスさまはマタイの第10章で、十二人の使徒に、悪霊を追い出し、あらゆる病気を癒す権威を授けているのです。それにも関わらず、弟子たちはこの悪霊を追い出すことができませんでした。弟子たちにはそれが不思議なのです。マルコの最後のところに書かれている一節、「この種のものは、祈り{と断食}によらなければ、何によっても追い出せるものではありません」の部分は、マタイではカッコの中に入っています。これは発見された聖書の原典の中に、この箇所が表記されたものとそうでないものの二種類が存在したので、こういう表記になっています。マルコには存在する節ですから、もともとは書かれていたのですね。ここを読むと、どうやらこの子供の中にいた悪霊は別の悪霊とは格が違っていて、そもそも弟子たちの手には負えなかったようです。

それにしても悪霊は「信仰」によって追い出すものなのです。弟子たちはそれがわかっていませんでした。「信仰」とはなんでしょうか。「あぁ、信仰の薄い人たち」とイエスさまに言われて、ドキリとする信者は少なくないでしょう。自分の信仰は弱いのではないか、薄いのではないか、と思い悩む信者はたくさんいます。でもそれは「自分が神さまを信じる力」を測る考え方です。これだとどこかで必ずくじける日が来ます。人間はつまらない存在なのです。聖書の中で何度も何度も繰り返し神さまを裏切り続けます。自分は違う、自分だけはそうしない、自分だけは絶対に神さまをガッカリさせない、という考え方は、聖書の中で負け続けます。人間は神さまをガッカリさせずにはいられない愚かでつまらない存在なのです。それなのに神さまは、そんな人間を救うためにわざわざイエスさまを遣わしてくださいました。そのイエスさまは、旧約聖書で預言されたとおりに、史上最悪の残虐刑である十字架にかかって、私たちのために苦しい苦しい死を味わうのです。そのイエスさまの流した血が、私たち人間の愚かさ、つまらなさを洗い流す、そういう話です。ありえない。ありがたい、申し訳ない話なのです。だから「福音(良い知らせのこと)」なのです。「信仰」とは、それほど素晴らしい神さまの愛を、尽きることのない全知全能の力を信じることです。

何が神さまの目から見て正しいのか、聖書では「義」と表現されますが、それを書いた箇所がルカにあります。Luke 18:9-14(ルカの福音書第18章9〜14節)です。「9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』 13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』 14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」([新改訳])。神さまの前に立ったら、ありがたくて、同時に申し訳なくて、顔も上げられず、跪いて、自分の胸をたたいて、自分がどれほどの罪人であるかを告白して謝罪し、憐れを乞う、そういう姿勢の人が義と認められるのです。




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『ショーシャンクの空に』。圧巻。

2011/09/13 12:36
ず〜っと、iPod Touchで、通勤電車で映画を見続けています。

その中で圧巻だったのが、『ショーシャンクの空に』(1993年アメリカ)。


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好きな映画のベストワンに推す、有名人なども多いこの1本。マジですごかった。アカデミー賞の7部門にノミネート(この年の対抗は『フォレスト・ガンプ/一期一会』だったのが不運)。俺も、いま何か1本だけ映画を見るとしたら何?と聞かれたら、これを答えてもいい。

主人公のアンディを演じた、ティム・ロビンスは『トップガン』のマーリン役だった人。冒頭でインド洋でミグに遭遇して、ロックオンされて戦列を離れる空母のナンバーワン・パイロット、「クーガー」の、後ろに座っていたレーダー要員がその人。クーガーが戦列を離れたのでマーベリックがトップガンへ行きます。マーリンは映画の最後でグースを失ってトップガンからインド洋へ戻ってきたマーベリックの後ろに座ります。身長195cmのハンサムボーイ。

監督のフランク・ダラボンは聞かない名前。基本、怖い系の映画ばかり撮ってるみたい。同じキングを映画化した『グリーンマイル』の出来はいまいちだったなぁ・・・。怖いけど、『ミスト』、行っちゃう? マジで怖いです(笑)。『プライベート・ライアン』の脚本もやっている。これは見ないと・・・。

スクリーンプレイ・シリーズには入っていないけれど、アルクから出ていたので、さっそく中古でスクリプトを買いました(本の出来はスクリーンプレイ・シリーズの方がずっといいですけど仕方ない)。





この映画を見ていてアラン・パーカーを思い出した。『ミッドナイト・エクスプレス』と『バーディ』が無性に見たくなった。レンタル、あるかなぁ・・・。




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期待を裏切らない作品。『トイ・ストーリー3』。

2011/09/11 23:55
ついに見ました。『トイ・ストーリー3』。


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TSUTAYAで「旧作」に入ったので(笑)。家族で見ました。

「トイ・ストーリー」「トイ・ストーリー2」を見て泣いてますからね、見ないわけにはいきません。

まぁ、ハラハラさせてくれます。そして笑わせてくれます。それにしてもジョン・ラセターは期待を裏切らないよねぇ。でも、最後のシーンは、このシナリオが正解なのかな・・・。この裏切り方だけは、ちょっと切ないっす。

そうそう。ラセターは宮崎駿の大ファンなんだけど、ついにトトロが登場してました。友情出演(笑)?

あと、DVDの特典映像がすごく良かった。制作スタッフのインタビューなんか。99%、本当の話。マジで楽しそう。

英語のスクリプトはスクリーンプレーからは出ていませんが、ここで見つけましたよ:「Cartoon Movies!」。「TOY STORY」は第1作だけのようですが、私はやはり第1作が最高に好きなので。



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いよいよ今月発売。『ドラゴンクエストI・II・III』(Wii)。

2011/09/08 13:28
いよいよ今月発売です。

『ドラゴンクエストI・II・III』の復刻版(Wii)。

これは買いでしょう。この秋はこれで決まり。気分は一気に懐かしの80年代へタイムスリップ。超、楽しみ!

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Matthew 17:1-13(マタイの福音書第17章1〜13節)

2011/09/07 16:18
水曜日は私のメルマガ「英語で聖書を読もう!」を転載しています。

Matthew 17:1-13(マタイの福音書第17章1〜13節)


聖書の引用:英語[NLT]と私の日本語意訳の併記


The Transfiguration

変容


1 Six days later Jesus took Peter and the two brothers, James and John, and led them up a high mountain to be alone.

1 六日後、イエスさまはペテロと、ヤコブとヨハネの兄弟を連れて、彼らだけになるために高い山の上へと導いて行きました。

2 As the men watched, Jesus’ appearance was transformed so that his face shone like the sun, and his clothes became as white as light.

2 弟子たちが見ていると、イエスさまの姿が変わり、顔が太陽のように輝き、衣服は光のように白くなりました。

3 Suddenly, Moses and Elijah appeared and began talking with Jesus.

3 突然、モーゼとエリヤが出現して、イエスさまと話し始めました。

4 Peter exclaimed, “Lord, it’s wonderful for us to be here! If you want, I’ll make three shelters as memorials -- one for you, one for Moses, and one for Elijah.”

4 ペテロが叫びました。「主よ、私たちがここにいるのは素晴らしいことです。もしお望みであれば記念に私がここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーゼのために一つ、エリヤのために一つ。」

5 But even as he spoke, a bright cloud overshadowed them, and a voice from the cloud said, “This is my dearly loved Son, who brings me great joy. Listen to him.”

5 しかしペテロが話していると、輝く雲が人々に覆い被さり、、雲の中から声が聞こえました。「これは私に大きな喜びをもたらしてくれる、私が心から愛する息子です。彼の言うことを聞きなさい。」

6 The disciples were terrified and fell face down on the ground.

6 弟子たちは恐れおののき、地面にひれ伏しました。

7 Then Jesus came over and touched them. “Get up,” he said. “Don’t be afraid.”

7 それからイエスさまがやって来て、弟子たちに触れて言いました。「立ちなさい。恐れないで。」

8 And when they looked up, Moses and Elijah were gone, and they saw only Jesus.

8 それで弟子たちが顔を上げると、モーゼもエリヤもおらず、イエスさまだけが目に入りました。

9 As they went back down the mountain, Jesus commanded them, “Don’t tell anyone what you have seen until the Son of Man has been raised from the dead.”

9 彼らが山を降りて行くと、イエスさまが弟子たちに命じました。「人の子が死者の中からよみがえるときまで、あなた方が目撃したことは誰にも話してはいけません。」

10 Then his disciples asked him, “Why do the teachers of religious law insist that Elijah must return before the Messiah comes?”

10 弟子たちはイエスさまにたずねました。「どうして律法学者たちは、メシヤが来る前にエリヤが来るはずだと言い張るのですか。」

11 Jesus replied, “Elijah is indeed coming first to get everything ready.

11 イエスさまが答えました。「本当のところ、エリヤはすべての準備を整えるために最初に来るのです。

12 But I tell you, Elijah has already come, but he wasn’t recognized, and they chose to abuse him. And in the same way they will also make the Son of Man suffer.”

12 しかし私はあなた方に言います。エリヤはもう来たのです。ところが彼は気づかれませんでした。そして彼らはエリヤをそまつに扱ったのです。そして同じように彼らは人の子をも苦しみに会わせるのです。」

13 Then the disciples realized he was talking about John the Baptist.

13 弟子たちはイエスさまが洗礼者ヨハネのことを話しているのだと気づきました。



ミニミニ解説


マタイの福音書第17章です。第16章の最後ではイエスさまがいよいよ自分の十字架と復活を予告しました。

今回と同じ記述は「マルコ」と「ルカ」に見られます。マルコは前回の続きにあたる、Mark 9:2-13(マルコの福音書第9章2〜13節)です。「2 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。3 その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。4 また、エリヤが、モーセとともに現われ、彼らはイエスと語り合っていた。5 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」 6 実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。7 そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がした。8 彼らが急いであたりを見回すと、自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった。9 さて、山を降りながら、イエスは彼らに、人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない、と特に命じられた。10 そこで彼らは、そのおことばを心に堅く留め、死人の中からよみがえると言われたことはどういう意味かを論じ合った。11 彼らはイエスに尋ねて言った。「律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っていますが、それはなぜでしょうか。」 12 イエスは言われた。「エリヤがまず来て、すべてのことを立て直します。では、人の子について、多くの苦しみを受け、さげすまれると書いてあるのは、どうしてなのですか。13 しかし、あなたがたに告げます。エリヤはもう来たのです。そして人々は、彼について書いてあるとおりに、好き勝手なことを彼にしたのです」([新改訳])。

ルカはLuke 9:28-36(ルカの福音書第9章28〜36節)です。「28 これらの教えがあってから八日ほどして、イエスは、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために、山に登られた。29 祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。 30 しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって、31 栄光のうちに現われて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。32 ペテロと仲間たちは、眠くてたまらなかったが、はっきり目がさめると、イエスの栄光と、イエスといっしょに立っているふたりの人を見た。33 それから、ふたりがイエスと別れようとしたとき、ペテロがイエスに言った。「先生。ここにいることは、すばらしいことです。私たちが三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」ペテロは何を言うべきかを知らなかったのである。34 彼がこう言っているうちに、雲がわき起こってその人々をおおった。彼らが雲に包まれると、弟子たちは恐ろしくなった。35 すると雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がした。36 この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった。彼らは沈黙を守り、その当時は、自分たちの見たこのことをいっさい、だれにも話さなかった」([新改訳])。「マタイ」・「ルカ」=「マルコ」+「Q資料」+「独自の資料」の公式にあてはめると、今回の部分は、「マルコ」からの採用です。

今回の部分は「Six days later(六日後)」という書き出して始まっていますが、これが果たして何から数えて6日後なのかはよくわかりません。第16章からの続きだとするとピリポ・カイザリヤでイエスさまが自分の十字架と復活を予告してから6日後、ということになります。ちなみにルカでは8日後の記述になっています。イエスさまはペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子だけを連れて山に登ります。この三人はいつもイエスさまの近くで活動していた三人で、イエスさまの側近とも言える人たちです。数々の奇跡を自分たちの目で目撃しました。ピリポ・カイザリヤは標高2,800メートルのヘルモン山の麓にある町です。周囲には山がたくさんある風光明媚なところです。ルカには「祈るために山に登られた」と目的が書かれています。これまでもイエスさまが一人で山に登ってお祈りをする場面がありました。イエスさまはこれからエルサレムに行くにあたり、神さまと長く深く会話する必要があったのです。聖書の中では「山」は神さまと会う場所なのです。今回登場する旧約聖書に登場する二人の人物も山へ登っています。モーゼはシナイ山の上で神さまから十戒を授かりましたし、預言者エリヤはアハブ王の妻イゼベルを逃れてホレブ山にたどり着き、そこでで神さまと出会います。イエスさまが大切な祈りのために山へ向かうのは、聖書の中では自然なことなのです。

2節、イエスさまの「変容」が始まります。おそらくイエスさまがお祈りを捧げている間に起こった出来事なのではないかと思います。イエスさまの顔が太陽のように輝き、衣服は光のように白くなります。「顔が光り輝く」変容は、モーゼが神さまから十戒を授かったときにも起こっています。Exodus 34:28-30(出エジプト記第34章28〜30節)を読んでみましょう。「28 モーセはそこに、四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、彼は石の板に契約のことば、十のことばを書きしるした。29 それから、モーセはシナイ山から降りて来た。モーセが山を降りて来たとき、その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。30 アロンとすべてのイスラエル人はモーセを見た。なんと彼の顔のはだが光を放つではないか。それで彼らは恐れて、彼に近づけなかった」([新改訳])。「白い衣服」は、終末論を詳細に書いた新約聖書最後の本、「Revelation(ヨハネの黙示録)」に何度か登場します。イエスさまと共に天から降りて来る軍勢や、イエスさまが十字架で流す血によって罪を洗い流された人々がまとう着物の色は純白です。白は罪のないことを象徴する色なのです。イエスさまはお祈りによって神さまと深く接触したことで、まるでモーゼが神さまと接触した後のように顔が輝き、衣服がひかりように白くなりました。

3節、そこにモーゼとエリヤが出現してイエスさまと話し始めます。どちらも旧約聖書の登場人物です。モーゼはイエスさまの時代から約1500年前、エリヤは800〜900年前の人物です。モーゼは死んで葬られましたが、エリヤは死んでいません。死ぬ前に神さまが天へ連れ去りました(そういう人間は聖書上では二人しかいません)。果たしてモーゼとエリヤはどこから現れたのでしょうか。死んだ者も、死んでいない者も、同じように現れてイエスさまと話しています。

4節、ペテロが叫びます。「主よ、私たちがここにいるのは素晴らしいことです。もしお望みであれば記念に私がここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーゼのために一つ、エリヤのために一つ」。ペテロは興奮してわけがわからなくなっているようです。「幕屋」というのは[NLT]では「shelter」、[KJV]では「tabernacle」となっています。これはモーゼがシナイ山で神さまから製作の方法を細かく指示された移動式のテント型神殿のことです。最終的にイスラエル第三代の王のソロモンが、エルサレムに豪壮な神殿を建築したので、この移動式神殿は不要になりました。ペテロは三人のためにこの移動式の神殿を一つずつ造りましょうと提案したのです。神殿はエルサレムに一つ、神さまのために存在するものと決まっているのですから、明らかに気が動転してどうかしていると思います。

5節では、そうやってペテロが話している間に輝く「雲」が出現します。旧約聖書では「雲」は神さまの象徴なのです。神さまが現れるときには必ずあたりを雲が包みます。モーゼが神さまと語るためにシナイ山に登ると山全体がすっぽりと雲に包まれますし、モーゼが神殿で神さまと話すときにはいつも上空に雲が出現しました。この雲はエジプトを脱出したユダヤ人が、パレスチナに入るまで40年間砂漠を放浪した間、ずっと彼らの上にありました。日中は彼らを強い日差しから守り、夜間には炎となって彼らを砂漠の冷気から守りました。神さまはあまりにも神聖なので、私たち人間のような卑しい存在には直視することができません。神さまが自らの姿を雲で包むのは、人間が神さまを直視することのないように、神さまが配慮してくださっているのではないか、と思います。

そして弟子たちを包んだ輝く雲の中から声がします。「これは私に大きな喜びをもたらしてくれる、私が心から愛する息子です。彼の言うことを聞きなさい」。これはイエスさまが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたときに聞こえた声と同じです。マタイはMatthew 3:16-17(マタイの福音書第3章16〜17節にあります。「16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」([新改訳])。

イエスさまがやって来て弟子たちが我に返ると、そこにはもうモーゼもエリヤもいません。ですが弟子たちは三人が一緒にいて、イエスさまの変容を目撃し、モーゼとエリヤの姿を見て、雲の中から神さまの声が響き渡るのを聞いたのです。イエスさまはいま見たことを、自分が死からよみがえるまでは、誰にも言うなと言います。弟子たちにはイエスさまが何を言っているのか意味がわからないだろうと思います。わかるのは「誰にも言うな」の部分だけです。

モーゼとエリヤを目撃した弟子たちが「どうして律法学者たちは、メシヤが来る前にエリヤが来るはずだと言い張るのですか」とたずねます。律法学者というのはファリサイ派とほぼ同義です。この質問から、当時のファリサイ派が旧約聖書最後の本、「Malachi(マラキ書)」の一番最後に書かれている預言を人々に教えていたことがわかります。Malachi 4:5-6(マラキ書第4章5〜6節)です。「5 見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ」([新改訳])。

11節のイエスさまの答は、「エリヤはすべての準備を整えるために最初に来る」です。マルコではこの後に「では、人の子について、多くの苦しみを受け、さげすまれると書いてあるのは、どうしてなのですか」と書かれているのですが、マタイではこの部分が省略されています。実はその答はマラキ書に書かれているのです。エリヤが来るのは「父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないため」です。ここに書かれている「わたし」とは神さまのことです。逆に言えばもしエリヤが来なければ、父の心は子に向かず、子の心も父に向かないことになり、それだと最終的に神さまが来て地上を滅ぼすことになってしまうのです。神さまが地上を滅ぼすのはどのようなときでしょうか。旧約聖書では大洪水を起こして地上をすべて水没させてしまったり、ソドムとゴモラの上に火(硫黄)を降らせて壊滅させましたが、それは人間の「罪(sin)」が度を超して、神さまがそれ以上我慢できなくなったときでした。いまの地上の乱れ様はどうでしょうか。壊滅させられる前のソドムと比べてどうなのでしょうか。

つまり神さまが怒りで地上を滅ぼすことのないように、まず最初にエリヤが来なければならないのです。そして12節のイエスさまの言葉によると、エリヤはすでに来たのでした。ですが、その人がエリヤであることに気づいた人はいませんでした。弟子たちはイエスさまが洗礼者ヨハネのことを言っていると気づきます。ですが弟子たちにはその意味まではわかりません。洗礼者ヨハネはイエスさまに先立って荒野に現れて、神さまに対する罪(sin)を自覚するように、自分の非を悔いて改めるようにと叫んで人を集めました。そして悔い改めを表明した人にはその印として洗礼を授けていたのです。イエスさまもその場に現れてヨハネの洗礼を受けました。そしてイエスさまが水の中から上がって来たときに、さきほどの「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」の神さまの声が聞こえたのです。これで準備が整いました。父の心が子に向き、子の心が父に向いたのです。イエスさまはここから伝道活動を開始しました。そしてその伝道活動の成就がエルサレムでの十字架刑なのです。イエスさまは旧約聖書の預言を成就する形で、人間の罪をすべて背負って十字架にかかります。イエスさまの流した血によって人々の罪(sin)が洗い流されて、人間は純白となったのです。




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『表現のための実践ロイヤル英文法』を全部覚える!

2011/09/06 18:01
ついにできたよ。この夏のプロジェクトの成果物の第1版。

6月〜9月の4ヶ月弱かけて、毎朝5時半に起きて会社行くまでの時間と、会社で仕事が終わってから2時間くらい会議室にこもったりなんかして、シコシコ何を作っていたかと言うと・・・。

まず、私が愛してやまない英文法の傑作本、『表現のための実践ロイヤル英文法』(旺文社;708ページ)を全部、MS-Excelに打ち込んだ(!)。すごいね〜。バカだね〜(笑)。


表現のための実践ロイヤル英文法
旺文社
綿貫 陽


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で、そのときに全体を「質問」と「答え」(及び「解説」)の列に分けて、自分で編集しながら打ち込んだ。たとえば「補語とは・・・ 〜です」などと説明してる部分があったら、「質問」の列には「補語とは何か説明せよ」と書いて、本文の説明は「答え」や「解説」の列に書いた(いまのところ、第1版は854問の問題に整理された)。

豊富な例文は(なんと、2,950件)は別シートに、やはり「和文」、「英文」、「解説」に分けて打ち込んだ。

で、これを順番に呼び出すマクロのプログラムをMS-ExcelのVBAで開発した。「出題」ボタンを押すと順番に問題を出してくれるわけ。で「答え」ボタンを押すと、「答え」と「解説」が表示される。で、その下に例文の英作文の日本語部分がズラリ。これもひとつずつ、自分で答えを考えてから「答え」ボタンを押して回答を確認できちゃう。

ほかにもいくつか便利な仕掛けを入れてあります。iTunes+iPodみたいに問題の再生回数が記録できたり(笑)。自分でメモとか評価をつけられたり・・・。

とにかく英文法を一からやり直したくて、なんとか『表現のための実践ロイヤル英文法』を全部覚える方法はないかな〜と思ってたんだけど、何回読んでも忘れちゃうし、「読む」という行為はいくらでも手抜きできるから・・・。意識的にも無意識にも。

でもこうやってプログラムにして「問題」→「回答」、「問題」→「回答」って、考えながら何周も何周もすれば、一番効果的に頭に詰め込めるかな〜と。854問だから毎日30〜40問くらいずつやれば1ヶ月で一周できるし。ほかの文献を参考にして自分で書き足していくこともできるし。


ではまずは、一周目。行って来ます(笑)。最初の一周は修正とか編集仕事の山で時間かかるだろうけど。「打ち込み」のつらい仕事はひととおり終わったからね(実はHelpful Hintはこれからなんだけど)。まぁ、ここからは楽しいよ!


英語プロジェクトはあと4つ、5つあるんです。英文法やりながらそっちへ次へ移ります。


ちなみに『表現のための実践ロイヤル英文法』は、今回、CD付きの版が発売されるようです。


表現のための実践ロイヤル英文法(例文暗記CD付き)
旺文社
綿貫 陽


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私がプロジェクトで使った本は、もともとアマゾンで中古で買った本です。何周かして英文法がひととおり頭に入ったら、いよいよ新調しようかな、と思っているところです。そのときにはやっぱりCD付きの版ですね。



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超巨大でノロノロ。ドーナツ型台風12号。

2011/09/05 12:57
今回の台風12号(タラス)はたいへんな被害をもたらしました。超巨大なドーナツ型でノロノロ。四国に上陸する直前などは時速7キロだったりしました。こんなでっかい台風がいつまでも通り過ぎずに長時間居座ったのですから、それは被害も大きくなるはずですね・・・。ドーナツ型だったので台風の通過地点よりも少し東側へそれたあたりの被害が甚大でした。紀伊半島とか。いやはや今年の日本は災難続きだ・・・。

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土曜日の朝にシュートレンジの中に立てかけてあったパックハンドリング練習用のコンパネが、強風でものすごい音を立てて倒れたので、これは吹き飛ばされたらご近所に迷惑がかかると思い、二枚重ねて横にして、上に土嚢を二つ重しに載せておきました(こんなの初めて)。

今朝、ようやく風が収まったので、土嚢を片付けてコンパネを元の位置に立てかけると、何か横に付着しています。ゴミかな〜と思ってよく見ると・・・、キノコ、でした(笑)。

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パソコンのCPU冷却ファンを交換してみた。

2011/09/04 23:55
5月にパソコンのCPU冷却ファンのノイズを自力解消したのですが、結局、最近またずっと、ウンウンうなりっぱなしです。

どうしてなんだろうかと再び本体を開いてみると、前回取り付け直した冷却ファン付きのアルミのヒートシンクの固定ねじが2本折れてしまっています。前回、1本折れていたのですが、なんとかごまかしてつけちゃったけど、さすがに2本折れるとヒートシンクがCPUに密着できないんですね。

ヒートシンクのねじはスプリング付きの特殊なねじで、ねじだけじゃなくてバネの力でヒートシンクをCPUに押しつけるようにできてますが、その力に耐えきれずにヒートシンクを包むプラスチック筐体が割れてしまっているのが原因。瞬間接着剤で固定してみたけど、一番力がかかる所なのですぐにとれてしまいます。

で、冷却ファンそのものを交換してみることにしました。冷却ファンを持って、近くのPC専門店へ行って、「これと交換できるファンをください」ときいてみましたが、「Core 2 Duoならこれで付くはずですが・・・」なんて、店員さんもやや自信なさげ。でもまぁ、やってみるしかないので購入です(2,770円)。

自宅で開梱してみて最初に気になったのは電源プラグのピンの数が違うこと(4つ→3つ)。でも形状が同じだから、左右どちらかに合わせるのだろうと考えて、ケーブルの色とソケットの向きを参考に決定。お、ついた(笑)。

次に困ったのは付属のヒートシンクの台座を取説どおりにマザーボードに固定しようとすると、部品(コンデンサが2つほど?)が邪魔で浮いてしまって固定できないこと。これは「台座なし」で行くことに決定(笑)。もう直接、CPUにヒートシンクを押しつけて、マザーボードにねじ止めしちゃう・・・。グリグリ。なんかむき出しな感じでかっこいい?

よ〜し、なんとかくっついたのでPCを起動してみた所、ファンが無事に回って騒音がゼロに。やった! これでしばらくは大丈夫かな。



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腹筋のベンチが家族に大人気。

2011/09/03 23:55
韓国テグで開催の世界陸上を連日見てきましたが、陸上の選手の身体って本当に美しいです(一部、投擲種目の選手は除く・・・(笑))。

何よりもお腹がぺったんこで腹筋の線がかっこいいです。ほれぼれしちゃう。

で、スポーツ用品店へ買い物に行ったついでに、腹筋のベンチを買ってみました(3,990円)。そしたらこれが家族みんなの大人気。こういう健康器具的なものが人気を集めるのはめずらしいです。

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(左上に写っているのは我が家のネコの銀次)

私はこの夏は、6〜9月の勉強のプロジェクトでず〜っと勉強していて、そしたらお腹がタプンタプンしてきちゃいました(ピンチ!)。そろそろプロジェクトもめどがつきそうだし、涼しくなってきたので、この秋は走って、腹筋して、腕立てしちゃいます。

家族みんなで6ブロックの腹筋を目指します(笑)。



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